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便利な皆さん


 喜田貞吉『差別の根源を考える』によれば、声聞は語源説で、シャーマン系の語がどうたらと言ふのがある。喜田先生は紹介だけしてゐる。凄い読むのたるい。別に喜田説では、声聞師は、人口に膾炙し皆さんからある程度の物として言はれ、そこそこ地位もあって、江戸時代にアウトカーストの人になった、と言ふもので、なんとか言ひながらヘイトスピーチがでゃー ではない。
 皆さん、イデオロギーをエンターテインメントとして巷間に広めまくってゐるので、「野良の僧侶」とする説でも、「古えの土師部・浮浪民等」が本流にある「夙・茶筅・鉢屋・傀儡師」の皆さんと、「野生のそんなもの」としてのショモジ系があって、と言ってゐる。
 他、社寺荘官村里について雑役やるとか警察監獄事務をやるのはまぁ普通として、陰陽・卜筮・遊藝・雑職の他、陰陽師、博士(狐憑きを落としたりする人)、簓(ささら!!)、説経、祭文、市子、梓巫って女性がゐたらしい、田楽(猿楽)、萬歳、春駒、夷舁(えびすかき)、大黒舞とかをやる。あと喜田先生はショモジがやってる鉢叩と鉦打とヒジリを分ける。

 ヒジリは嘗て菩薩と呼ばれてゐたのだが、この辺の関係と他は不明。ヒジリとショモジはgdgdなのだが、礫川全次先生によれば、喜田説はインスパイア源の「柳田君の説」にあるヒジリ=日知り説に関して一切言ってない。そのノモス的な方へ行ったプリーストキングのヒジリの帝=天皇陛下と他の「野良の聖職者」ヒジリがどうたらはいいや。

 聲聞は、仏教イデオロギー的に下とか、ダメなものを指す語。そのイデオロギー的なアレで、菩薩が牛 縁覚が鹿、聲聞は羊であると言ふ。なんぞ江戸時代辺り、サンスクリットだかその支那語訛りが、秋津島の人の耳には「鹿の鳴き声」に聞こえたとか何とか言ふナニがある。鹿野園がどうたらは関係ないと思ふ。
 羊僧 さう言ふわけで高橋昌明説で、ショモジの人は水属性なのであるが、五行説で未が風属性なので、ちゃんと聲聞師が羊僧と言はれるばあひに、風柱の人が出るわけであるが、えーと。

 パラフレーズする際に、「南無阿弥陀仏柱」はゐても「岩柱」がゐない。蟲柱は行けさうなのだが。

 どんど焼きの逆襲 猪はフェミナンである。『鬼灯の冷徹』の体重一トンのおかまとか『鬼滅』の伊之助さんのいのししマスクの下とかは実はアレであった。北欧の女神フレイヤの方が乗るヒルディスヴィーニは「戦乙女の棺」だけどおにーたんもグッリンブルスティと言ふいのしし持ってるんだよな。数字が「12」である。吉野裕子説での、左義長は鷺帳であり、どんど焼きの際に飾るピロっとした奴はまんこで、柱は竹即ちへびなので男根で、といふ(全集の二巻101頁、確か)あれがー。

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