非人部落
部落そのものが、ディヴァ―ジェンシーのあるイロチでオソロな、向ふ三軒両隣の七件くらゐで出来たコミュニティを指し、屠畜蔑視がインドに顕著である他捜すのに苦労するやうな、世界的な観点から一種異様なものであるのと同様、「単一の職業でのコミュニティ」は支那から来てない。鋼鐵塚は、はい。
構成員全員が特殊被差別民みのあるでも「普通のコミュニティ」を指す呼称として 院内 寺内(じない) 寺中 がある。「ショウモンジ」はあれなのだが、若干萬歳師のコミュニティがある二か所で、柳田國男によれば「なんか知らんけど」あじま(越前の味真 尾張の院内萬歳の根拠地である味鋺)と言ふところがある。
彼らはイデオロギーみが二万%あるエンターテイナーなので、陰陽道と仏教の完全なクレオールで、喜田貞吉大先生は、柳田國男大先生の「野良陰陽師」説を受け「仏教徒のアレ」説を説く。で「シャーマン」説に関して微妙と言ってゐる。
声聞師
高橋昌明大先生によれば、金鼓打ち、暦の領布、民間の陰陽師、千秋万歳・曲舞などの呪術的雑芸能、盆、彼岸なとに家を訪れて経を誦したり摺仏を配ったりする者(高橋『酒呑童子の誕生』135頁)で、水関係の龍宮城とかの、聖なるもので同時に人間を脅かす存在としての水に関する説話を作って傳へる上に水の呼吸もなし得たと。音柱(南方熊楠『全集8』p8))がゐる。藝能を行ふ。炭焼きより下カストにゐる。
どんど焼き 「あんも焼き」とか「ほんやり」とか言ふ呼称がー。通常昼に行ふといふ文化が何故か長野の一部に存在しない。水辺で行はれる。あと燃やされる達磨さんは火属性。
禁裏で行はれた三毬打(サギッチョウ)は羯鼓を叩いて囃す。柳田國男『唱門師の話』でも炎柱に当たる人が出てこないのだが、なんか式次第を傳へるなんぞが唱門師らしい。
柳田國男説では、仏教みが入る呼称として、遠州掛川のハカセ小太夫の自称「聲聞身」(『言継卿記』では「聲聞師」)『二水記』の「聖門師」を上げる。
また、『塵添壒嚢抄13』に、一条院の御宇に、寛印供奉の造りたまふ頌文を唱へてるので家々を回って、妙幢の本誓を唱へ、阿弥陀経を誦して金鼓を打つのは「聲聞師」て書くけど仏教系の「聲聞」ぢゃないから「唱門師」と書いた方がよいとある。
あと「とにかくありがたいお題目を唱へる人」として誦文の法師と言ふのがあってどうたら。喜田貞吉先生もこの説を享け、仏教関係の野良として声聞師をあげる。
ショウモンジ 他。
北河内で「正文」
越前萬歳の「證文士」祖先が源頼朝公の厩を寿いだのでこの称号を與へられ、免許を扇に書いたところ、偶然その免許証の骨が一本折れたので、「野宇津保の證文士骨一本足らぬ」と言はれる。この頼朝公にも2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する大泉洋演じるすけ殿みが。
『年中行事大成』1に、正月元日、禁裏の日華門の外で、毘沙門経を誦するツルメソ(漢字で書くと「犬神人」)の党類を「唱門師」。
新村出によれば、しはすは「極まる」の意の「しはつる」であるが他に、面白い俗説として、伊勢からこの月に、御師と呼ばれる神官が、カレンダーを持って全国を走り回り、
「年末年末年末!!年を分ける月年末!!」(資料 新井理恵『×―ペケ―』)
と言って暦を配ったから、と言ふ面白い俗説があるといふ。
なほ柳田國男は「暦師とも云うた」唱門師が除夜の頃、伊勢の山田で、二三人、装束をし、樒を四五十本束にしたのを持って外宮玉垣御門の外へ行き「花榊参りたり」とか叫んで、宮番の人とバトルをして新年あけるころに束をぶちこむ(同様のことを「長官の家」でもやる)めでたい儀礼があったといふ(柳田全集25巻55~6頁)。ただ柳田先生は「暦師をショモジの一名とする証拠」が不明としてゐるが、高橋昌明説で唱門師は、「暦の領布」を行ったと(高橋『酒吞童子の誕生』p137)言はれ、えー。宮番の人はアウトカーストらしい。
平将門が二次元の存在で、ショウモンジのプロパガンダによると言ふのは八切止夫先生のオリジナルだと思ったのだが、将門をショウモンと読むまでは、中山太郎大先生が、マサカドの手だか頭が埋まってると言はれる所は唱門師がなんかやった関係を誤って平将門@シャウモンに府会した、とか言ってゐたらしい。でその将門をショウモンと読むのは「学者でなければがてんの行かぬ」と柳田大先生は一蹴してゐる。
比叡山延暦寺の境内の將門の童堂が児の衣を繕ふので、装束衣紋の略でシャウモンだとか、平新皇将門がここでなんかやったとか、それを討伐するために四天王がどうたらとか、言ふのを紹介する柳田大先生は、延暦寺の開祖傳教大師最長上人が、何回も言ふ、支那で外道をゲトーして、使ふ技をなんか継承してゐる犬神人などもショモジと言はれた旨を上げ、「耕作が嫌ひで而も器用巧慧なる」皆さんが比叡山の拝路の辺りに「誦文の童堂」と称するコロニー作ってる可能性はあるとする。
そのハカセとかの陰陽師関係が作ってゐた、仏教とのクレオールなカルチャーは、江戸時代初期に土御門の人がその辺を禁止したんぢゃねえかと言ふのが柳田國男説。