ごはんーごはんー おかゆライスは主食と主食ー
炊ぐ は大昔から室町時代まで「かしく」と発音し、「蒸す」調理法であったらしい。
資料 『料理の起源』カルピスを、味覚としては他の乳料理の中で結構上であるとするとか、あー、Dough(小麦粉を水で練ったやつ 揚げるとドーナッツ)文化の味的な双璧が皮パンとナーンで、さう言ふ下カストのアジアンDough文化圏の端っこで、「中に餡(ドライフルーツとかのおまけの関係が餡子)を入れる」物をその味的な高峰たる皮パン(兵糧として便利とか、高島秋帆や江川太郎左衛門英龍などのパン祖関係が軍事の人といふのは無視する)を、なんでぇDoughぢゃねえかっつうて適用したといふ現象は、はい。
なほ、小豆はa秋津島での消費量が異常な上b栽培化すると脱落するはずの「ちゃっちゃと脱落する因子」が未だにあるといふ特異な栽培植物である。
ご飯。パーチトライスとか。
なんちゃってご飯史。お粥さん~強飯~ご飯。この辺までは野生種でもできるので、一応レヴェル1 米文化圏では島の人が大体これで食ってる。
飯盒は、この原始的な段階から雑穀系の段階までできる。満州で将校待遇であった中尾佐助大先生が、満州の皆さんへ、「始めちょろちょろ中パッパ」を教へるが、彼らは
「そんなものを食べるとは!!なんて哀れなんだ!!日本人!!あまりにも可哀想だから私がまともな飯を作ってやろう」
と言って(多分)、後期炊干し法と呼ばれるものでご飯炊いてくれたさうである。そっちも飯盒でやられたさうである。
中尾佐助『料理の起源』によれば、敗戦直後、北京の辺りを彷徨ってゐた中尾大先生は、支那人が作る、獣の腸が泳ぐスープと、どう見ても蒸してる、絶対蒸してる、全力で蒸し飯を主張してゐる多分蒸し飯を頂いて、なんとか帰国、その後、その調理法を蒸し飯としてゐる文献を見つけた後、偉い先生から
「中尾君あのね、ソレ、蒸す前に一回煮てるんだよ」
と言はれたさうである。さらにそれは、徳川幕府の将軍様のごはんであったらしい。二度炊きと呼ばれるこれは、蒸し飯なのかも不明。
シトギ 粉にしたお米をアレしてそれしたやつ。神事に供へられるが、諸アジアでは主食とするところもある。これがあーなったりさうなったりしてお餅になったと考へられる
レヴェル3飯。後期炊き干し法 大量の水で煮、その後、籠などで上げ、水でお粘をとって、蒸す。
この大陸系のごはんは、飯ヒエラルキーの上級になるとされるが、中尾大先生は、タームとカストを合はせてみるテストにおいて、このレヴェルの朝鮮ごはんササールとインドご飯サリーに関連付けができるとしながら、支那語でさう言ふ名前のごはんがないと言ってゐる。
さういふわけですし飯はシャリではないのだが、すし飯をシャリと言ふやうになったのは近世以降であるらしいのだが、他の朝鮮語系がその言語圏人を馬鹿にしたものである(「モルゲッソヨ」)割に、これはあれだな。
『未来少年コナン』でキャラクターが自分の食ふマグカップ系の入れ物に入った食糧を豚(名前の「うまそう」からソレの運命が察せられる)へ食はしてゐるが、かういふ飯を食ふ満州では、お粘はいはゆる服の糊付けかよい子(離乳食系)が食ふ他、馬へ食はす。
伊藤武先生辺りがインドでやっぱりお粘を取って塩振って飲むと言ふのを紹介してゐた、筈。あとこの調理法は、秋津島では雑穀とか麦で用ゐられる。
ピラフ 特殊部隊。