自分から本気でノベライズしたいと思った映画作品が2つある。1つは宮崎駿の「天空の城ラピュタ」。ほんとはもっとあるような気がするのだが、部分的にはその気を起こさせても、キャラから風景や雰囲気まで含めて総ぐるみで意欲をわかせてくれたものはごく少ない。
「ラピュタ」を最初に見たのがいつで、どういうメディアだったかまったく記憶がないのだが、たぶんビデオだろう。最初から最後までいっさい無駄がなく、きらめくようなエッセンスだけでできた作品に思えた。冒頭の孤独な夜行列車を思わせる飛行戦艦の登場から、その内部への視点の移動、怪しげな諜報部員の集団を思わせるムスカたち、鬼のような形相の三つ編みバアさんにひきいられた海賊の襲撃と、たたみかける展開が素晴らしかった。
だからだろう。「これはもっと濃密に描き込めるし、そうされるべき価値のある話だ」と感じた。そして、自分ならスピード感をすこしも損なわずにそれができるという気がした。本来ならススで黒ずみ油染みやタールの臭気が漂っているだろう鉱山や工場群のたたずまいは、昔自分が生い立った街の活気や喧騒が彷彿として、もっとリアルでありながらファンタジックでもある光景として活写できると思った。それに、ロボットが復活して徐々に建物を内部から破壊していく場面。「ターミネーター」にも通じる徹底的な破壊衝動を描くことにも魅力を感じたものだった。
オリジナルをそっくりノベライズする場合にせつないのは、不満の残る場面をへたに改変できないことだろう。ことにセリフには、それを言う必然性をちゃんと持たせなければならない。ノベライズ作品でよく感じるのはこのセリフの唐突さ、浮いた感じ、だからだ。しかし、地の文がしっかりしていれば画像と声優の演技以上の深みや味が出せるのに、ともよく思う。今調べてみたら、やっぱり「ラピュタ」にも小説版があるらしいが、どうなのだろうか。
もう1つノベライズしたいと思わせた作品は「エイリアン」である。この作品の本質はホラーで、じゃあホラーが書きたいのかというとジャンルとしてのホラーははっきり言ってどうでもいい。たぶん私が魅せられたのは、閉ざされた舞台となるノストロモ号の、無機的で息のつまりそうな居住区と、管理の行き届いていない大工場のような迷路や暗がりで構成された空洞である倉庫や機関部との対比、そしてこの場所と時間にひとつも夢や愛着を持っていず、各人が不安定な感情を抱えたまままったく孤立している人物群との対比、それらの構造が生み出す緊張感だった。
そこでは、エイリアンの存在は、不安と嫌悪感を誘うものであればネズミ一匹でも話は成立する。実際、ちゃんとネコがその代役になるフェイント的なシーンもある。ではギーガーの創造した〝エイリアン〟はコケ脅しにすぎないかといえばそんなことはない。次々殺戮されていく乗組員は、仲間の顔に張り付いたり腹を食い破って逃走するところを目撃してはいても、成体を目にするのは死の直前の濃密な一瞬だけなのだ。そのときの彼らが感じるのは、単にふり返ったらライオンの顔があったという驚きとは違うだろう。思わず嫌悪感を誘う形状の巨大な丸頭、ありえない形に歯をむくあぎとなど、それこそクトゥルー的な存在の違和感をかもすものを突きつけられた感覚である。
たしかに映像の力は圧倒的だが、言葉によって腑分けし名づけられることでようやく喚起される感覚というものがある。理解を絶したものに蹂躙される恐怖というべきだろうか。もちろん、観客は数回、徐々にそれを味わっていくわけだが、すでに〝完全生物〟とか定義されてしまっている「2」や「3」にはその体験はない。その初体験の生々しさを伝えるためのノベライズということである。
残念ながら、そしてそれが映画の限界だが、ほとんどのキャラがエイリアンの恐怖を映し出すのに奉仕するだけに終わってしまっていることである。もっと人間的な深みが出せていたなら、エイリアンそのものがもっと多様で多角的な象徴となる存在として浮かび上がってきたことだろう。「ラピュタ」と「エイリアン」を見はじめると、今でも頭の中で描写しようとムズムズ動きだす言葉の群れを感じる。ことに、エイリアンとそれぞれの出会いを果たすまでのキャラの感情の起伏や表情を見るにつけ「惜しい」と思う。「小説ならやれるのに!」と。
前回、今回とノベライズについて語ってきたので、もしかすると私がそういう仕事をやりたがっているように誤解されたら困るのだが、この2例というのは「ああ、これが自分のオリジナル小説であったら!」という倒錯的な、しかし幸福な気分になれる仮定法過去なのである。実際のノベライズは、たとえそれがオリジナルストーリーとして作れたとしても、前回述べたようにたいがい〝枠〟や〝縛り〟を意識せざるをえず、よくて良質な「2」を作ることにしかならない。仕事にはなっても、創作者としてはつらいところなのだ。
ノベライズ作品はいくつか読んでいるが、満足できたのは「E.T.」1作しかない。あれはたしか、離婚して欲求不満気味の母親の視点が導入されていて、アメリカの日常的風景の中にE.T.が出現してその日常を夢幻的に変えていくことの〝リアルさ〟がうまく出せている気がした。
逆は「スターウォーズ」で、このノベライズは何のためにあるんだろうと思った。家庭用ビデオもまだ普及していない時代だから、映画を見ただけではわからなかったり見過ごしてしまった情報を得るためだったのかもしれないが、そんな役割だったのなら悲しい。訳者の矢野徹さんはあとがきで映画のことを口をきわめてほめちぎっているが、ではあの小説が素晴らしいSF作品と言えるかどうかについてはいっさい触れてなかった気がする。まあ、矢野さんの責任ではないのだが。
二次創作というのがこのサイトでは認められているようだが、それをする人の動機が作品に対する偏愛にあるにせよ不満にあるにせよ、わざわざ(しかも無償で)それをやるからには、ぜひオリジナルを軽やかに凌駕するほどの面白さを実現してほしいと思う。
ではまた次回。