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第一回自主企画③

コトノハーモニーの遠野と北山です。
今回ははじめての企画に参加して頂きありがとうございます。一体何を言われるのかと身構えてる方もいらっしゃるかもしれませんが、物語を書く端くれとして、書き直すための材料として何が必要だと思うのか、真剣に意見を出し合い、まとめました。

批評『滑走路の桜の向こう』ジュージさん
https://kakuyomu.jp/works/1177354054898127535

肯定的批評
①大学にある滑走路という意外性が読者の興味を引く
②主人公の一途さが十年間という時間と桜の思い出を通して全編で語られている
③届かないメールというアイテムが切なさを演出している

批判的批評
①主人公の人物像が見えてこない。彼女とはどこで出会ったのか、彼女とは同い年なのか主人公が年上なのか。回想の中で主人公の人物像が見えず、また十年後である現在の主人公も、読者にはどういう日々を送ってきたのかが見えてこない。そのため後半の盛り上がりに欠け、アッサリと終わってしまったように感じる。
②冒頭では「かなり久しぶりに訪れた」感があるが、実際は去年も訪れている。同じように彼女が亡くなってから十年後と言っているシーンもあれば、出会ったのはさらに四年前……など時系列の情報が小出しとなって分かりづらい。
③主人公の語り始める雰囲気も相まって冒頭の早い内から、読者には彼女が死んでいることが予想でき、全体に回想が占める割合が多く、読者の「こうなるだろう」という予想が裏切られることなく終わる。そのため物語としての起伏が乏しい。
④「もしもあの日、僕がずっとずっと武蔵境駅南口で君を待っていたら、君は死なずに済んだのだろうか。」
「そんな馬鹿みたいなことを今でも考えてしまう。あの日、君は僕との待ち合わせに向かう途中で、事故に遭って帰らぬ人となったのだ。」
この文章の繋がりがすごく解釈しづらかった。南口に来るまでに事故にあっているはずだが、これは主人公が彼女の死の知らせを知らずに済んだという意味か?

雑感
・そもそも桜が「彼女と過ごした日々の象徴」であると同時に「彼女を失った最後のきっかけ」だと考えると、この主人公にとって二度と見たくないものにはならなかったのか。主人公が「だんだん穏やかな気持ちで見れる」というのは理解できるが、読者には「この十年どういう気持ちで見に行っていたのか」という点はわからない。人物像を掘り下げることによって、毎年訪れていた理由も読者に伝わるのではないだろうか。
・メールである必要はあるのか。十年という時間に意味があるのか(何かの約束をして十年、主人公にとっての区切り…など)。メールではなくLINEの方が既読がつかないという点で、読者には亡くなったかどうかわかりにくくなるのではないか。(※LINEも一説によると電話番号が他者に割り振られない限りはアカウントが残り続けるらしい)
・「葉桜もきれいだね」という一連の場面は、ラストの盛り上がりとしてもっと書き込んでほしいと思う。エラーについての件などは不要であり、彼女の死が読者にも伝わった状況ならば、最後はあえて語りかけるなど、見せ方があるのではないか。主人公にだけ彼女の幻が一瞬見えるなど、いっそのことファンタジックな演出の方が読者の印象にも残るのではないか。
・果たしてこの物語は「喪失」なのか「再生」なのか。
 ここをもう少しはっきりと読者に対して示した方がいい。十年間という長い時間、主人公がどう過ごしてきて、今何を思ってここ立っているのか、を描いた方がいいのではないか。(あえて十年後とした理由は?十年経っても癒されない喪失なのか、十年経って癒された再生の兆しなのか)

これは他の作品でも書いていることですが、主人公の人物像をもっと描いてほしいと思います。今のままでは主人公から見た「君」が物語の中心であって、この話は「君を失ってしまった僕の物語」として描かれるべきだと思います。そこが描かれてこそ、主人公が十年間ずっとこの場所を訪れる理由、滑走路の奥には行かない理由、読み手に説得力と共感が生まれると思います。

今回は企画に参加頂き、ありがとうございました。
この批評も私たちの意見や主観が入ったものになりますので、もちろん肯定的・批判的共に全てを受け入れる必要はなく、それを望んでいるわけでもありません。どうかご自身のよりよいと思う作品を、これからも作り続けて頂ければ幸いです。

今後の活躍をお祈りいたします。

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