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第三章「愛おしきpécheur」について

pécheur とは、宗教的文脈で用いられる「罪人」の意です

馬越三郎というキャラクターの罪は、ソドミーなどではなく、
他人の心を試した「種蒔き」にあります

こんな悪魔みたいな奴は、罰を受けるのが相応だ

と書きながら思ってしまったほど、
彼は思春期の歪みが凝縮した存在でした

ネガティブな予測を立て、試して、予測を確かなものと確認する

「正気」でいるときは、他人の心を試す罪深さをわかっています
自己肯定感の低さと、表裏である承認欲求とがなせるものだということも、承認欲求の満たし方がさらに自己肯定感を下げるということも

しかし、気付くと「種蒔き」をやってしまう

モデルは私と、高校時代の友人ふたり。
今になって馬越くんの描き方を見ると、
過去のあれこれへの腹立たしさから、馬越くんには必要以上に厳しい展開を選んでいると感じます

あの展開に、プロット上の必然性はありません

これを書いたときの私は、高校生のころの私が大っ嫌いだったんだなぁ
何度か書き直そうと思いましたが、これもまた、当時の心理の記録として残しておこうと思います

pécheur に愛おしきと冠したのは、彼がそれでも愛されるべき存在だと思ったからです
歳三も岸本も、敬助も千歳も、それぞれに彼を愛した、もしくは、愛そうとした

その愛を自覚し、身を顧みて、愛に報いようと生きはじめた馬越くんは、きっと幸いを知ることができるはずです

……なんて、キリスト教色の濃いことを語ってしまったかな

ちなみに、私は入信する宗教はありませんが、旦那寺は曹洞宗であり、
禅宗ならびに浄土宗・真宗に親しみを覚え、幽冥界的思想も有しつつ、
キリスト教的愛と赦しに惹かれるという
いかにも日本人らしいごちゃ混ぜ宗教観を持っています

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