語り得ない事については沈黙しなければならない。
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
言語化できない概念は~、とか、意味の無いことは論じても無駄、とか、認識の限界と解釈され。
ブッダは、無記、または十四無記という、考えても問うても回答しても意味が無い命題について表現している。(もっともコレは「ブッダはん、既存の派閥の何処に属しているの?」 と決めつける問いに対して、無視した、というのが元らしい)
無記について
「AはBである」「AはBでない」の2つの命題が
いずれも真・いずれかが偽・いずれも偽
どの立場に立つのか?という
当時の既存の派閥の考えかたの、
いずれにブッダの教団の教えはあるのか?
という決めつけに対して無視した、という話、だったような気がする。
ちなみに上記2つの命題がいずれも真である、ということになれば、
Aが偽である(そんな矛盾したものは存在しえない)、というのが論理学の定義らしいんだが、
今度は金剛般若教の中では、
「いずれも真であるという矛盾した状態が生じうる」
ってんだからもう「シュレディンガーの猫」かっていう。論理学じゃなくて世の中は確率論の世界なん。
色即是空。
・梯子を登り切ったら、その梯子を投げ捨てなければならない。
He must so to speak throw away the ladder, after he has climbed up on it.
Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist.
いっぽう、ブッダはアタマの固い弟子に
「川を渡るために使った筏が、どれだけ役に立ったからといっても、向こう岸からの陸地の先にまで筏を担いでいく、というのは、はたして役に立つ事だろうか」と語ったってんですからもしかして
ヴィトゲンシュタインはブッダの転生後の(ラノベの読み過ぎ脳)
一度、短期的に偶々成功したからと云って次も同じ方法でクリア出来るとは思わない事ね。っていう。誤った成功体験によるオペラント条件付けを避ける、日々コレ改善、という俗っぽい理解を個人的にはしているのだが、
学術的には
段階を上げていくならばそれまでの方法論が通用しない次元にぶち当たる。新たな方法論が常に必要とされるというのが学問。というヤスパースっぽい話になってくるのだった。究極の真理には到底到達できないんだけど、真理を求める姿勢と行き方が哲学するってことなん。
橋本治氏は「分からない事はハズカシイこと。でも、どこかに100点満点の回答があって、全部判りやすく教えてくれるマニュアルとかハウツー本がどっかにあるんじゃないかという妄想は昭和病・20世紀病です」みたいなことを云ってたん。
だいたいいい年こいた社会人なら、
全て判っていて100点満点の答案書けますってのは
小学生までで、
とりあえず、今の手持ちの札の中から、最善手に近い方法を選んでいく(もちろんわかんねーこともあるから勉強もするんだけど)やっぱわかんねーことがあるなあ、この前のは、今考えると最善手・最適解じゃなかったなあ、って、日々もやもやを抱えながら生きて行くってものなんじゃないかなあと感じてます。