ハイデッガー「存在と時間」を入手したが、読み始める前に、カルロ ロヴェッリの「すごい物理学入門」をよんでしまった。
ロヴェッリ「時間は存在しない」を読んでから「存在と時間」を読むべきか「存在と時間」をよんでから「時間は存在しない」を読むべきか
【審議中】
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∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
つまり、時間は、他のもの(脈拍・振り子・時計の秒針、等々)を変数とする凾数であり、時間は絶対なものではない。ついでに空間も。
結論は「哲学」(近代思想論)は、自然科学的な素養が無いと、オカルト的解釈がまかり通ってしまいますので。
審議しても結論は自明ではありますが。
あとなんとなく、誰もが言いたがる「孤独に耐える力を!」ってのはみんなハイデッガーからなのではないかと。
その後、近藤康太郎氏は読書について、孤独に耐えた後に、「人を愛するレッスンである」と云うんだけど、
「孤独に耐える、自分を大切にする、人も大切にする」の、真ん中が抜けてませんか? 近藤先生!
(自己評価の低い小生)
まったく関係無いが、「そのひとあしが道となり」とか「君の後ろに道が出来る」はどうも聖書が本歌なのではないかと。一休禅師よりもずっと後の明治・大正期の知識人の好きなモチーフと思われ。
あと、アインシュタインが「世界はもっとシンプルであるべきだ」と感じていたのは、スピノザの決定論的な世界観と関連しているのではないだろうか。
アインシュタインがボーアと議論する際に、「箱から一個だけ光量子が出たとき~、......。」というモデルがあるそうだ。
おそらく、アインシュタインは、空間や場の量子から、光の量子一個分のエネルギーが出たとき、その場は全く空っぽになるのか? 消滅するのか? それとも、隣り合う空間、または、場の量子からエネルギーが伝播して、全くの空虚な状態というのは、ありえないのか? という極限の状態について、議論したかったのではないだろうか。
個人的な理解としては、光とは、ファラデー力線の揺らぎなので、鎖かたびらが揺れるようなもんで、光ってても鎖カタビラがぶっ壊れる訳では無いと思うんだが(←ウィトゲンシュタインに怒られるレベルのたとえ話)
シャボン膜や海面のきらめきで喩えられているんだけど、私的には、炭酸水の表面で、泡がぱちぱち弾けてるイメージであります。
あと、「量子」について、ぽつんぽつんと設置された街灯の下を歩いて行く男性で喩えられて居たけれど、私は「合わせ鏡の中を走ってくる悪魔(『異世界のんびり農家』のグッチさん)」でイメージしました。連続的に見えても、「鏡と鏡の間」はコマ落ちしてるんだろうなあ←
乱文ご容赦。