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論語よんでヘッセ読む

 「論語」で好きなのは「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」で、「不断の探求」「不遇の嘆き」「物量とエネルギーに対する賛嘆」と解釈は分かれる。
 個人的には「熱力学の第二法則・エントロピーは増大する」で、「時間の矢は逆戻りしない」に通じると感じた。

 子罕篇では、九仞の功を一簣に虧く(書経)を彷彿とさせる、
「子の曰わく、譬えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣を成さざるも、止むは吾が止むなり。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆すると雖ども、進むは吾が往くなり」
が近くにあり、上述と合わせて、「進み始める、往く事のたいせつさ、逝く事のとどまらない狂躁的なマニアックなエネルギー、そして完成と完遂の困難さ」と関連づけてみては如何かと。

 方丈記の「往く川の流れは絶えずして」は、もちろんここから来てるであろうことは、言を俟たない。

論語で一番物語としてぐっとくるのは、
「子、匡に畏す。顔淵、後れたり。子曰く、吾、汝を以って死せりと為す。曰く、子、在す。回、何ぞ敢て死せん。」
と言った顔回がー。(顔回、諱は回、字は子淵なので顔淵とも。)
「子、子貢に謂いて曰わく、汝と回と、孰れか愈れる。対えて曰わく、賜や、何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る。賜や一を聞きて以て二を知る。子の曰わく、如かざるなり。吾と汝と如かざるなり。」
感動すると二回繰り返す孔子がー。(子貢は姓は端木(たんぼく)、名は賜なので「賜」と師匠に答えてます。)
「子之を哭して慟す。従者曰わく、子慟せり。曰わく、慟すること有るか。夫の人の爲に慟するに非ずして誰が爲にかせん。」
ですよ。目から汗が。

 さて、JRの駅からハイキングで鴻巣から上尾まで歩いたわけですが、途中の案内所に、サンスクリット文字の研究僧が居た、との掲示が有ったのでした。
 案内の方は
「卒塔婆に書かれたほとんどの人が訳の分からない文字に、いったい何の意味があるのやら?」
と呆れていましたが。
 研究成果を書物に著わすほどに調べたエネルギーが、今に通じているので、またインターネットに画像を上げると「この梵字はこんな意味で」と誰かが解説してくれる時代になったのでありました。

 途中の文教堂書店、漫画ばっかりになってますが、新潮文庫の若い番号のものや、地図が置いてあったので、また寄りたいと思いました。
 ヘッセの「シッダールタ」を購入。やはりね。セレンデピティですよ。
「川」が重要なモチーフになってますな。(ネタばれ注意)

 ちなみに大宮台地周辺も菖蒲・深井など水にまつわる地名が多いです。
 渡辺綱さんの名字「渡辺」の由来もこの辺り(上流のほう)の地名由来らしい。
 都内では国分寺あたりの地形が似てますな。3億円事件のアレ(古い)

 中山道もこのあたりは、徳川幕府恩顧の宿場町といえるので、鴻巣・上尾......、と分断されたり、廃仏稀釈や合祀もあったりで、明治政府も酷な事をやったもんだと思いました。
 町田と相模原の境界みたいなもんで。
 ちなみに八王子・千人同心(武田の遺臣を徳川が引き取った)が、日光東照宮に見張り番に行くための道も、この辺りで交差するっす。

 鴻巣付近は、古い地名について、人形町などは残っているものの、町内会の名前にしか残らず、行政区画にも住居表示にも残されなかったものがあります。

 そして「和宮降嫁」の宿は、明治になると、明治天皇が行幸して権威を上書きするのです。
 
 また一方で、駅からハイキングの浜松町スタート篇では、旧新橋停車場記念館もあって、旧伊達藩の屋敷跡に停車場をつくり、駅のホームは藩邸の石垣などを利用する一方で、路線が通る予定だった旧薩摩の下屋敷は避けて海上に堤を造って鉄道を通すワケです。明治政府とはいったい。

 逝く者は斯の如きか、昼夜を舎かず。

 乱文ご容赦。年取るとね、いろんな事が連続的に起きて、唐突にほぼ同時に結末まで至るのよ。最後は生物学的に突発的に同時終了するのね。「俺たちの戦いはここまでだ」って。←

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