論理哲学論考を読み始め、1ページ目で、コレ「ずっと俺のターン」または「俺がルールブックだ」もしくは「攻略サイトまるっと暗記した乙女ゲー世界に転生したがモブキャラまたはザコキャラだつたので破滅エンド避ける為にナナメ方向の努力するわ」
ぢゃないかコレは、ってなった。
読み進めると「哲学で語るべき命題と語ってはならない命題がある」二元論になったり「アプリオリで真である」モノがある、ということになり、ギリシャ哲学に戻ってないかコレってなった。
二元論は、ヘーゲルが弁証法の止揚で解決したような気持ちになっていたが、しかし、命題として言語化・試行の対象として明確化されない「その他いろいろ」について零れ落としてしまう可能性が有り。「ジャイアンのものものび太の物もジャイアンのもの」かもしれないが、それではジャイアンの関心の域外にあるものについて論じられなくなる。その他いろいろ。つまりカート・ヴォネガットはヘーゲル批判として読める(極論)。
本題とは関係無いが、白川静氏の著作では、止揚ではなくて、「有の否定は無である、無の否定は無無である」としてる。ギリシャ哲学のノモスなどの用語は用いているが、止揚したり統合したりはしない。
さて、ウィトゲンのパラドクスとつつかれる事柄については、既に哲学論考においても「明らかな矛盾・間違いは命題として在っても意味が無い」と明確に論じてるので、批判に答えるのも、なかなか面倒なもんだと思った。
トートロジーを無意味と断じてよいが、生成流転、時間的経過と変化を思想・哲学に取り入れないと、教条主義に陥りかねない。トートロジーと矛盾はある意味両極端なので、そこを極値としてその間にあるモノを語る、ということであるのだろうか。
6章に至ると、なんだか論理哲学での命題そのものが、そもそもトートロジーなんじゃね?とも読み取れなくもなく、どうにもナイフエッジな感じがしてきた。極値のこっち側ならば、論じる範囲内である、ということなのか。
アプリオリに真、証明する必要もなく事実である、という記述が出てくると、論理性と正当性について単語の定義的な論争になりそう。だけどそいつは不毛だ。「ウルフウッド、そいつは所詮ことばだ」
ってバッサリやられちゃいそうだ。
全然関係無いが、儒教の最初は行動する孔子だったし、仏教も行動する教団だった。論語の入門の本を読むと、前書きで「宮沢賢治は、行動する敬虔な仏教徒だった」(大意)という記述にぶちあたりえらく当惑するのだった。
ずっと仏教徒だと思って居たけれども、生活の規範に関しては儒教的な道徳にどうしても依っているところある、と、50歳にしていろんな事がわかるのだった。マックスウェーバーも読まなきゃダメか。
さて、本題に戻って「論理哲学論考」読み進めると、どうやら「アプリオリに真である」を読み替えないことには、先に進めなくなりそうだ。
従前は「ギリシャ哲学への回帰?絶対神の存在を肯定?」と思って居たが、「縛りプレイだらけのウィトゲンの哲学体系の中で、使ってヨシ!とお墨付きが出た!」と思ったほうが、むしろ通りが早い。
たとえば「論理学的帰納法は、「アプリオリに真である」ので使ってイイヨ!」ということか。数学的帰納法ほど厳密では無いにせよ。
「真・真・真......真」と表現するとトートロジーっぽいけど「結論が真であるということは途中経過も出発点も真である」と云える体系じゃないと認められないやとどうにも自家撞着になってるような気もするが。
記号論や認識論などは矛盾と誤謬の無い体系を作るためには周辺の議論ってことになるのか。
ソクラテス、プラトンやデカルト、カントまで回帰というか、実用に耐える有効な思考法を最小単位まで突き詰めてる感じ。
異世界ラノベでいうと「縛りマゾプレイこそレベルを上げて真の理に至るための修行プレイだゾ」という、令嬢よりもむしろ異世界冒険者ギルドマスター(なぜかヒゲマッチョ)的なアレだ。力こそパゥワー、筋肉こそマッスル。ただの一度も妥協を認めず。つま先から脳味噌までストイックに出来ていた。無限の賢聖。
むしろ「そんな装備で大丈夫か?(一周目)」と聞きたくなるような縛りプレイである。ゲームの序盤の強制イベントでボス級キャラになすすべもなくやられてチュートリアルが始まるアレかアレなのか。
6章では、数学の法則や物理学の法則と比較が始まるので、理系ならむしろ理解が早い。ウィトゲンは航空力学の天才なんで。
時間と空間が相対的なもんだということに気付いていたんじゃないかな。長く高空に在った時計が進んでいたりとか、経験的直感的に理解していたフシが見られ。
当方、化学系なので「左手と右手が完全に重なり合わない(カント)」と言われると、鏡像体・d-体とl-体、キラルーアキラル、ラセミ体と云った概念が連想されるので、トポロジーは詳しくないが四次元を持ち出さなくても、分かるーわかるわーわかりみある、となる。
つまり「ウィトゲンが劇薬」になるのは、現代日本では理系学部レベルの素養とまでいわなくても、線形代数か高校物理の教養が無いままに、人文・社会学で純粋培養されてると「劇薬」になるわーそりゃなるわーなるのもしょうがないわーっという印象。自然科学的な視点と教養の不足したひ弱な近代思想純粋培養なインテリさんとっては確かに劇薬ですわ。お気をつけあそばせ。(なんで私が悪役令嬢やねんな)
ブルーバックスのニュートン「プリンシピア」をざっと読むと、ウィトゲンはんは哲学でコレをやりたかってんと理解可能。
あと、もしも井上靖の「孔子」を読んだならば、加地伸行の角川ソフィア文庫のほうでも良いので「論語」を読んで、白川静の「孔子伝」も読むべき。美文の持つ魔力に騙されなさるなよ。
なんかね、経済学で、数学のオイラーの公式をそのまんま流用して適当な変数を定義してた学者が居たんで、経済学は経済「論」だよなあとオイラは個人的に思ってるんだけど。(オイラーの公式 e^iθ=cosθ+i sinθにθ=πを代入したe^iπ=-1)
つまり美は普遍かもしれないけど、他人様の発見して証明した公式を勝手に流用しちゃアカンし、もっともらしいフィクションは美文で紛れ込ませるのが作家さんのお仕事ってことで、ひとつ。
それにしても「論理哲学論考」が世に出たのが1922年頃、一般相対性理論が世に出て、量子力学はもうちょい。「ドイツの科学技術力は世界一ィイ!」に対する懸念があったと思われる。自然科学も万能ではないので。時間の概念に言及している部分が、21世紀の物理学(時間というと「函数の結果を左右する変数」というよりも、何かの変数による函数の、「結果」のほうじゃね?っていう)を暗示しているようで興味深い。キティさんがリンゴ3個分の背丈になるまでの期間、というか。メトロノームの往復何回分、とか。「クロノメーター」に喩えられていた。
そして、ある一定の高処に到達したならば、そこまでの方法論(経験的成功論)は、捨て去らなければならない事がありうる。
失敗学における成功バイアスに対する危惧であるし、学問や研究に終りがない孔子である。
だけど詩人なウィトゲンさんなので、「登ったら梯子は捨て去れ!」という。慣用句に慣れたニホンジンにとっては、「高所に登ったら梯子を外された」ような気分になったりもするのである。
孔子さんも云ってたけど、いきなり若人が学問するのでなくて、人生知も蓄えつつ。人間って矛盾だらけだし、社会なんて一貫性もなんも無い、というところから哲学するのが良いです。うまいことやるのが人生哲学。
ウィトゲンたんは、充分な咀嚼力を持たない若人・哲学(近代思想論)で純粋培養された学者さんにとっては、たしかに劇薬なんです。
できれば自然科学や工学をある程度修めてから触れた方が良い。化学の素養をバックボーンにして哲学を読めるようになっていたとは思わなかった。
高校生の頃の倫理の授業、傾倒した後に勝手に幻滅していた。「哲学」はかつて総合学問だった。自然科学や心理学や文学や社会学、宗教学、...にすべて分派していった。いまや「近代思想論」だけになってしまった。
いやいや21世紀になり、宇宙って「時間」を使わずに描写できるんじゃね?とか、エネルギー的安定状態が一つの「解」と言えるんじゃね?と、むしろ自然科学がかつての哲学の持っていた性格を帯び始めていて。だからこそオカルトには要注意なのですが。
空間は4to1の鎖カタビラみたいなもんなのか。「時間が逆行するビッグクランチ」はないにせよ、収縮からのバクハツ(ビッグバウンス)はありえるのか。
つまり小説読みからが良いんです。ジュブナイルでもラノベでも入り口なんです。いつまでも入り口に居ると莫迦にされますけど。中高生は、とにかく紙の本を読みたまえ、であります。
爺婆になっていても、若い連中を「つまんねー本読んでるなぁ」と揶揄したら、「お前さんのレベルなら、コレ読んどけー。今は歯が立たないかもしれねーけど、おもしれえから」って薦める本を持ってたら、格好いいでしょ?
乱文ご容赦