とっくの大昔に追いかけるのは諦めましたけど、皆さんの近況ノートって、毎日更新の日記どころかX(Twitter)みたいですよね……。
カクヨムを辞めてしまった方が、ここ数ヶ月で数名います。
プロフィールにも明記しているのですが、わたしに粘着している自己愛によって行動や思考を制限され、「ああしろこうしろ」とコントロールされているうちに、ご自身の精神が失調してしまった方々です。
洗脳はこちらからは解けないので、申し訳なかったです。
その方々が、自己愛に操られるままに憎悪や罵声を浴びせてくる他の取り巻きのような行動がとれていれば、今もカクヨムを続けられたでしょうに。
そんな自己愛の洗脳工作に対して一ミリも乗らない・引っかからない、「は?」と返せる人たちがいるのですが、もはや洗脳されない人のほうが、人間の神秘に想えるわ。
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年度末とKACでみんな忙しそうだから、好きなこと書きま~す。
批評企画で酷評をもらったからって作品を消したりしないで欲しいな~。
そんなお話でございます。
カクヨム内で「批評」と銘打っているのはその大半が、『他人の意見・感想を仰げる機会』これに近いです。
生徒役が申し込み、先生役になった方が想うところを述べてくれる。欠点も指摘してくれる。
「批評」には悪いところ・いいところを指摘しますという意味もありますから、これであってる。
大変だろうに、読んでくれるだけでも、PVのない人間にとっては嬉しい限りです。
批評を続けている方のほうは、「批評したい・批評させろ」ジャンキーなので、しんどくもないのでしょうが。
性格的に尖った方が多めなので、あたりが悪いと、びっくりしてアカウントを消す人まで出ちゃいますよね。
不幸なことです。
でもこれは仕方がない面もあるんです。
批評をする方は「相手が芥川賞作家だろうがビギナーだろうが、忖度なく云いたいことをいう」この姿勢を売りにしていますから。
もし本当に「批評」が出来る人がいたらカクヨムにはいないでしょう。
心構え的には「このおじさんの意見がきけるのね」このくらいのスタンスがちょうどいいです。
酷評されてもキニシナイ。
彼らは歯に衣着せぬを信条としている通りすがりのおっさんです。
おじさんありがとう! でいいんです。
たまに長篇書いてる人で、「あり得ないことですが途中でヒロインの名前を間違えてました💦 すみません一度下げます!」とかあるけど、あれ全然オッケーですよ。
世に残っている大作なんかでも、夢中になって書くあまりに登場人物の容姿や名前が途中で変わっていること、あるあるです。
弟のはずが兄になってたり、クララがアリアになってたり。
「明らかな間違いはこちらで直しました」って後ろの方で訳者さんが慎み深くそっと断っているの、見たことがありますよね。
ミスがあるか・ないかは作品の魅力には関係なくて、それは小説の価値を決めることじゃないです。
カクヨムでも誤字脱字が多めの方がいて、誤字脱字をなくす作業にその方の意識がまったく向いてない。物語の続きを書く方に意識が全振りしてる。
わたし的には全然これでいいです。
優先すべきことを優先してるだけだから。
わたしを含めた大勢のファンにとっては、その方の作品の誤字脱字なんてどうでもよかった。
誤字脱字をピアノのコンクールに置き換えるなら、ミスは一つあっても致命傷です。
でも小説なら、つっかえつっかえ、間違え間違えしながらも、ああ確かに子犬のワルツだわ~って伝わるのなら、それはその演奏はそこを評価するべきです。
誤字脱字なんてあとで校正さんが幾らでも拾うものであって、物語を書く人がやることの一番上にあるものじゃない。
「出来るだけ減らしたほうがいいね」くらいのものです。
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芥川が出てきたので、ついでの流れで、校閲。
芥川龍之介をたたき台にして、あじさいさんという方が数年前に校閲したものがカクヨムにあります。
時代が違うので本来は同じ土台には乗せられないのですが、あじさいさんがあえてそれをやっているので、校閲の様子をご覧ください。
そして校閲の心得がある方なら、あじさいさんの回答をご覧になる前に、ぜひ同じ個所を校閲してみて下さい。
たたき台の箇所は、―(ダッシュ)で区切られているところです。
https://kakuyomu.jp/works/16816927859219815030どうでしょうか。
芥川龍之介であっても、点数ではないんですけど、100点満点のテストを20点で返されるような結果です。
そして校閲が出来る方は、ご自身の校閲とあじさいさんの校閲の結果が、一致していたでしょうか。
「平均点は68点です。芥川先生の校閲の結果が出ました。平均点以下の20点です」
もしこんな数値が出たとします。
芥川龍之介って、平均以下の小説家でしょうか?
真っ赤に指摘されたところを直したら、この作品は、もっと完璧な名作になるのでしょうか?
ここを、混同しちゃだめなんです。
試しに、芥川の文章をあじさいさんのパターンで書き直してみたとします。
時代差があるのでうまく伝わらないかも知れないんですけど、ん~ってなりませんか。
最初の文章こそ芥川。
どんなに現代の校閲からみて下手であっても、訂正したものよりは、芥川の血肉から出た、灰汁や無駄のある文章であることの方がやはり強いんです。
そうはいっても、指摘された箇所は間違いなのだから片っ端から直したほうがいい。
そう想います?
多分、それを素直になにからなにまで全部やる人は、次第に書くもの書くもの、旨味成分を全て抜いた、生まれてきたのを間違えたスルメみたいな文体になります。
要は『模範』に近くなる。
模範ならいいじゃないか!
よくない。
こう書けば赤ペン入らないのねということに縛られるあまりに、ひたすらそっちに意識を傾けて、校閲さんの亡霊が乗り移ったかのような文章になります。
のびのび書けなくなって、だんだん文章が硬直して、独自のスタイルを失い、横並びの誰かと同じような文体になります。
批評家の文章ってなんとなくみんな似てますよね。あんな感じに近くなる。
「校閲にいかに引っかからないか」
ここが、その人が小説を書く際におどおどしながら一番気にするところになる。
それは小説として一番大切なところじゃないし、それだと生きた小説も生まれない。
なんならとんでもない悪文でもいいんです。
びくびくしながら萎縮して書いたものなんて、面白いものにはなりません。
素人とまで云われた芥川ですが、では校閲さんが「羅生門」を超えるものを書けるのか? といえば多分書けないでしょう。
ここを一緒にしたら駄目なんです。
ひと昔の小説には、何度も同じ単語や同じ表現が近くに出てきたりします。
それがリーディングの邪魔になるのか、小説の面白さを損なうのかっていったら全然ならない。
無理やり類語で云い変えてみても、かえって息苦しいことがある。
だから、今の、近くに同じ表現がないほうがいいなんていうのは、こんなのはただの校閲の流行?
困るのは、あじさいさんの校閲なんかを見て、「ほらほら近くに同じ単語がある」と校閲のスキルを得た気になって他人の作品を裁く輩です。
読んでてちょっと邪魔だなと想えば「同じ単語ばかりで少しうるさい気がしました」とそこを云えばいいし、今の流行として同じ表現は極力近くにおかない方がいいならそうしたほうが無難ですが、小説の本質はそこじゃないです。
校閲が出来る人が、「ここはこうです」というのは、現代のテンプレではそうですと言っているだけです。
だがしかし。
AIが下読みするようになったら、模範解答により近い文体の方が高得点が出るかもしれません。
すきっとした英語の構文のような文章が最上とされて、のびやかな日本語特有の魅力、時としてくどかったり重かったり流麗だったり、装飾過剰だったり素っ気なかったり、人それぞれの文体の面白さなんて、審査を絶対に通らなくなるかもしれませんね。
鈍牛のように垢ぬけない、その人にしか書けない迷路のような文体でしか表現できないもの。
パチパチと跳ねているような元気のよさ。
そんな小説がゴミ箱に捨てられる時代はもうすぐそこまで、来ているのかも知れません。
AIはそんなにバカじゃないかな……?
とにかく、「カクヨムのおじさんに酷評されたからもう駄目だ」とか、「校閲に云われたことはその通りに全部変えなければ」と鵜呑みにするのは絶対にやめて欲しいです。
校閲さんは「これが読みやすく・美しく・間違いのない、おすすめの模範解答でーす」と物凄く調べた上で云ってくれるんですが、この模範解答に何の考えもなしにみんなが揃えてしまうと、味わいも何もなくなるおそれがあります。
あの芥川さんですら校閲されると素人の文章だと云われるのです。
萎縮せず、まずはのびのびと書いて欲しいです。