花粉の季節がやって来ました。
「最初に罹ってから二十年で免疫が出来て平気でなる」説にどれほど期待していたことでしょう。
嘘やん。
花粉のせいで元々、マスクのストックが家にあったんです。
コロナでマスクが一番枯渇していた時に、何処にも売ってないと嘆いている人たちに送ってあげたんですよね、マスク。
ガーゼも沢山あったので、子ども用マスクを作ってあげたり。
そんなことをやってると、マスクの供給が安定した頃から、マスク+お菓子なんかの返礼があるわけです。
もうマスクが安くなってるから、箱でとか、売ってるものの中から一番高いものを選んだのであろうシルク製とかで下さるわけ。
一時は売り場から消えていたのが嘘のように、現在は彩りもさまざまなマスクが選びたい放題です。
毎年春が近くなるとマスクの準備をしていたのに、いつもそばに沢山あるのが当たり前になってしまいました。
「純文学をやるほうが未来は明るい」
ある方の自主企画の概要に書かれていた文言です。真花さんだったかな。
その方が云おうとしたこととは違うのですが、言葉どおりにそうだな、と。
未来が明るいというか、息が長くてお得?
十代の青くさい懊悩から始まって、老齢になるまで、ずっと書いていけるんですよね。
今、ご機嫌で異世界転生やラブコメを書いている人はそのままご機嫌で書いておくのが一番なので、水を差す気はないし、むしろそのかっとび具合は今しか書けないから精一杯やれと云いたいけれど。
下から下から若い人たちが新しい作風を出してくる中にあって、社会人になり家庭をもち、役職がつくような年代になってもまだ、「これからも異世界でモテモテになって生きていく」を書いている。
それが出来るのであれば、それはそれで素晴らしいことです。
きっと底力のある人が残っているでしょう。
でもある程度の年齢になって、高校生の男の子が異世界でモテモテになるのを書くのはちょっと気持ち的にギャップが出てきたので、方向転換して違うジャンルを書こうとしても、それまでwebの異世界しか書いてない・読んでないと、最初はちょっと難しいかも知れません。
たとえ今書いているものが異世界モテモテであっても、いろんな本を読んでおくほうがよいんじゃなかろうかという意味でも、純文学の方が息が長いです。
純文学には黒歴史はありません。
純文学を書いていること自体が、黒歴史だからです。
生まれてはじめて原稿用紙に何かを書いた日から、最初から最後まで、ずっと黒歴史。
刻む一文字、一文字が、黒い。
物書きは、何度自分を殺してきたか分かりません。
だいたいの人は、羊のように静かですよね。
文章を書こうなんていう人間は元々そっちの人の方が多いのであって、わたしは何にも不思議には想いませんが、その静かな様子を指さして、
「地蔵、地蔵!」
とわたしをストーカーしている自己愛から、高らかに嘲り笑われたことがあります。
そのように他人を嘲り笑い、他人の創作物や人間関係をはしゃぎながら破壊するほうが「勝ち」という考え方をしていないことは確かです。
純文学の人は地味です。
あれは何故かというと、何百回も自分を殺してきているからです。刃を他人には向けず、自分に突き付けてきた。
人は褒めるほうがいい。
わたしもその方がいいと想っています。
書く人は自分で自分の非才・無才に気づかないといけない。
自分で自分のことを何百回も殺している人のことを、かっこつけた批評とやらで、わざわざ楽しんで殺すことはない。
批評されて落ち込んでいる物書きさんがいたら、セーフティネットとして、うちに持って来てくれたらいいのに。とくに初心者さん。
意味不明なくらい褒めますよわたし。
もし、
「リアリティがないと云われました涙」
なんて言われたら、
「ムーミンがなぜ二足歩行をしているのか問題視したことある?って云い返してやれ」と云いますからね。
根拠のない自信大事。
意見が欲しいと云われても、曖昧な云い方しかしません。
『わたしが正解』ではないからです。
『正解の文章』があって、それをなぞるのが小説ではありませんから。
『正解の作り方』があって、それで組み立てるのが小説ではありませんから。
もし正解があるのだとしたら、出る作品、出る作品、全て名作でベストセラーにならないといけない。
理屈ではそうなります。
「これが作家になるための必勝法です」
「これが大成功する作品の作り方です」
こんなのは巷に溢れかえっている「英語が一か月でぺらぺらになる方法」みたいなものです。
これを忠実に履行すれば、確実に誰もが大成功するんでしょうか?
全員が、大作家になっていますか?
「効率のいい勉強法」「これで大丈夫、試験攻略」そんな書籍は山のようにあります。
結果はどうだったでしょうか。
たまたま手に取った必勝法が、たまたまその人の性質に合って、めでたく作家になれる人も確かにいるかもしれません。
でも、その先にハウツーはありません。
あるのなら、全員がベストセラーです。
必勝法。
ひと昔前ならば、「必勝法」には背を向けて、負ける馬に賭けちゃうのが作家の業でしたが、今はもっと洗練されて、スマートに、一番簡単で、一番手っ取り早い方法で、
「あなたもわたしもこれで作家」
その方法がベストとされます。
自分を百万回殺すよりも、その方がおしゃれで軽くていいという時代。
なので、「これであなたも作家になれる」「売れる小説の書き方」そんなものを熟読している人が大勢いても、「それで作家になって生涯食べていけるのならやれば?」としか云えません。
以前に、批評とはたまたま電車で隣りに座った人の意見と書いたんですけど、それは批評を否定するものではなく、一人の意見を鵜呑みにするんじゃなくて自分が納得したところだけを採用したらいい、その理由として書いたものです。
大変ですよ、批評する人。
やってみたら分かると想うけど。
押し寄せる有象無象の作品を相手に、批評する人の、何が大変か。
「読める」人なら別です。
でもそうでないのなら、スポーツに喩えるなら、様々なスポーツに精通していないといけないことかも。
ラグビーは分かるけど、卓球は分かりません。
陸上は経験がありますが、バスケはルールも知りません。
その状態で「これはいい、これは駄目」と批評するのは、どちらの側にとっても不幸です。
さらに酷いと、
「私の~~やり方だけが~~正しいの~~」これを云いたいだけの人もいます。『正解が一つ』という人です。その正解も、幅広い見地に根ざしたものではなく、単純に自分が上に立ちたいだけという人です。
こういう人が大切にしているものは、人の創作に籠る魂や力ではありません。
いかに自分が他人を踏みにじって上に立っているように『見せかける』か、これだけです。
人に命令することは大好きですが、自分自身で完全無欠な作品を創ることからは逃げ続けます。
「云う通りにお前がやれ!」です。
失敗が怖いから絶対に自分ではやらない。
(新作)
◆俳句・短歌集
犀川ようさんの自主企画用。
方々から寄せられる他人の作品を読むのは、読むだけでも疲れて大変なことです。
苦手なものでも、それを読んで、その作品の魅力を探らないといけない。
そんな苦行をあえてやる。
これは、犀川さんが、「自分の修行」と捉えているからです。美点を見出して褒めるという泥臭い修行。
きっとランダムに多くの作品を眼にすることで、反面教師にもなるのでしょう。
学びに変える、その姿勢が素晴らしいです。
作品については、情緒性・感受性・力強さ、全てが突き抜けていると過去に評されたことがあったので、そこは抑えて、どんな感想をもらえるのか楽しみにしていました。
パペットではない感想ならば大切にすることにしています。
同じ企画の参加者さんたちがランキング上位をずらりと占めて、「犀川女王とカクヨムの代表ここに集結」と堂々たる中、底辺のわたしは何のお役にも立てませんでしたが、他の人が頑張ってるからいいかー。
◆「カリンカの墓」
柴田恭太朗さんの三題噺♯54
締め切りを一か月後だと勘違いしていました。外枠だけ作って放置していたら、いつもどおり期間は一週間でした。
あれ?
あれれ?
これの次の、つまり今の♯55のお題から、KACとの兼ね合いもあって募集期間は三月いっぱいということだったのね。
二日遅刻です。一か月以内に書けばいいのね~とのんびりしていました。
大急ぎで書き上げました。
遅刻作ですが、感想やレビューを頂けて嬉しかったです。
KACは去年、カクヨムコン以上にぶんぶん星が飛び交っているのを見て、事故るわ……と想ったので今年も不参加です。
ゆっくり読みたいのよ。
開催時期はもうすこしズレてた方がいいですよね。
六月くらいならやる気も出てくるのに。
※パペット=わたしに粘着している人間に洗脳された人のこと。
寄生虫に脳を乗っ取られているかのように、全員が同じことを云い出す。あちらはそれぞれ個別でも、こちらから見たら全員がぱくぱくと同じことしか云わなくなるので不気味。