(新作のおしらせ)
クロノヒョウさんの企画→「七夜三話」
柴田恭太朗さんの企画→「わたしのキモオタ君Ⅲ」
よそさまの作品にレビューを書くと、書いたレビューに『いいね』がもらえることがあります。
犀川ようさんの「根性論みたいな創作論(補修版)」に寄せたレビューに、『いいね』を頂く数、ついに歴代1位になりました。
と書こうとしていたのですが。
みちのあかりさんの「カクヨムコンの不都合な真実 ~データで見るカクヨムコンの現実~」に寄せたレビューがまた抜きました。
肩を並べています。
ながらく不動の一位は近畿地方でしたが、あれは読者数が桁違いなので除外。
しかしそれすらもこの両名は抜いたのです。
みちのあかりさんのものはカクヨムコン・フィーバー中でしたから、実質、犀川さんが1位でしょう。
下民どもよ、これが金持ちのパワーだ。
そんな犀川さんの声が聴こえてきそうです。
ミイラみたいに飢えている者が多い中、お金がなければちょっと稼げばいいじゃないとばかりに数日のうちに自力で百万円をその才覚で生み出し、少し家の中を整理すると埋蔵の金塊が発掘されるそんな方ですからまさに持てる者に金と人と力は集まるそろそろ怒られそう。
こうして、後からでもレビューに「いいね」がつく。
これは、その作者と作品が陽の当たるところにあり、読まれているということです。
「根性論みたいな創作論(補修版)」は名著ですが、「根性論」なんかを書きながら、犀川ようさんはまったく正反対のことも説得力をもって論じることが出来るクレバーな方なので、皆さまも指針とする創作論は一つと決めず、自分にフィットするものを適宜選択すると良いと想います。
鵜呑みがいちばんいけません。
そういえばwebにはweb用の創作論もあったりして、前からなんで序章を飛ばして1話から読む人が多いんだろうと不思議でしたが、プロローグ不要論がはびこっているからなんですね。
世界観の説明とか、物語に入っていくための前章は、邪魔だ。ということらしいのですが、誰かがそんなことを云ったからって、読む方も書くほうも全員が右に倣えしてしまい、駆逐されちゃったようなんですけど、わたしは好きですよプロローグ。
さすがに序章に一万字も割いてたら、序章とはw と想いますけれど。
俺の創った世界設定を見てくれというのが冗長でwebではだるかったということなんでしょうけれど。
「さあ物語が始まるぞ」という感じがして、わたしは序章、好きです。
映画ならアバンタイトル。
スター・ウォーズで文字が奥に流れていくあの部分、最初は意味が半分くらいしか分からないけど、それでも読むじゃないですか。
「序章不要」が流行しているからといって、序章不要でないといけないと書き手も読み手も想い込むことはない。
自分が序章が好きなら、序章を書いたらいいんです。
某女優が、俳優ではなく女優と呼ばれたいといったようなことを述べられて、わたしも同感なんですが、これは女優に差別的な意味がほぼない今だからこそ言えることで、あるのなら、とても言えなかったでしょう。
差別する人はどうしたってするのだから、性別を不明にする意味ある~? と想っている派ですが、先人の女性たちがもぎ取ってきた男女平等の中には、
「保母・看護婦呼びはこの仕事は女のやることという差別が入っている。別の呼び名を」そんな悲願も入っていたので、その本気度を否定するものではありません。
そこから一周まわって、俳優じゃなくて女優がいいってなってるのが今なんでしょうね。
拙作「あかい十字」では、「看護婦」と書いています。看護婦であることに意味がある。
当時そうだったものを、「看護師」にしたら台無しです。
そして私たちは多分、「看護婦」という文字列を見てもそこにピキッとくることはない。
女性差別を受けて育ってないから。
『女流作家』もそうかな。
戦後もながく女性作家は『女流』と呼ばれて別枠扱いになっていて、ちょうど、今でいう「なろう」と同じような感じでしょうか、ひとくくりにされて数段低い扱いだった。
「なろう」とついたら、「ああ……」ってなるみたいな。そんなイメージでの女流。
男尊女卑を隠さない、プライドの高い文士ががっちりスクラム組んで、女流を文壇から追い出していた。
戦前戦後を通して、「文学とは男がするものぞ」そんな気風が根強く、完全に男性優位の世界だった。
女のくせに作家になろうなどと想うなよ? そんな雰囲気が強かった。
といっても、女性を差別しない男性作家は当時からいて、優れた作品は正当にきちんと評価していました。
樋口一葉も森鴎外が大絶賛することで世に出たのですが、樋口一葉が若い女性なものだから、やっかみもあって「女なんかを」と批難されたり揶揄された。
それでも、
「一葉贔屓と云われても、いっこうにかまいません」
(現代訳)
「一葉推しですけどなにか?」
樋口一葉を評価した男性作家たちは平然としていたのです。
それに、「女は作家になるな」というのも、これはなにも偏狭な差別意識だけでなく、当時の男性の優しさでもあったんですよね。
作家になりたいだなんて、あなた、こんなにも、こんなにも大変なことを、女のあなたはやらないほうがいいですよ。
そんな父的な心配。
これは海外でも同じです。
その昔、英国の文壇では「女性は童話か恋愛小説しか書いてはいけない」という不文律がありまして、そのどれかならば、女性が小説を書いても大目にみてもらえていた。これは「どうせそれしか書けない」の意味です。
女は生まれた村から一歩も外に出ない。そんな女性が大半だった時代です。
だから女は視野が狭い、世界が狭い。
ゆえに大したものは書けない、とされていた。
ジェーン・オースティンなんかも、「戦争と政治が書けてない」というのが当時のオースティンへの評で、田舎の人間模様とロマンスを書いているのだから政治も戦場も出てこなくて当たり前なんですが、こんな言いがかりのような批評がまかり通っていた。
でも、彼女を批判していた批評家が死に絶えた後も、作家としてのオースティンの名と作品は世紀を超えてずっと輝かしく今に残っています。
クリスティのミス・マープルみたいに、観察眼をもって身近な人たちをよく見ていて、そのお蔭で小説の中の人間が生き生きとしている。
登場人物が生きているのでオースティンの作品は今読んでも面白いです。
さて本題。
上記の犀川ようさんが明日より新しい企画を立てられます!
募集されるのは、短歌・俳句・詩です。
詳しくは犀川さんの近況ノートか、明日立つであろう自主企画概要をご覧になって下さい。
心得のある方は参加されてはいかがでしょうか。
主催の犀川さんが全てに眼を通して下さるだけでも、この企画に参加する価値があると想います。
神社ってきっとこんな感じで出来るんだよ。
犀川神社にお参りに行けば御利益があるかもしれません。
レビューね、レビュー。
わたしのは文庫のあとがき風かラブレターとして書くので異色ですが、レビューの有無は運営さんが最も重視するところ。
読んだのか読んでないのか分からない☆よりも、いい作品だと寄せられるレビューの内容も熱いし数も多いです。
でも気楽にレビューを寄せやすい作品と、そうじゃない作品があると想うの……。
ビートルズが売れて、あちこちに引っ張り回され、取材を受け、世界的人気バンドとして熱狂に巻き込まれている時。
ポールとジョンはいつも想っていました。スタジオに帰りたい。
「はやく曲を作りたいな」
その気持ちでわたしも小説を書いています。
きっと多くの方がそうでしょう。
どんなに下手でも、その気持ちがある人を応援しております。