誰も読んでないのに、本人だけが楽しくて書いている。
この状態が、わたしのデフォルトです。
読まれなくてもいい! じゃなくて、現実的にわりとそんな感じというお話です。
つまり、大勢の人が読んでくれて、さらに広告収入まであって、嬉しくて楽しくてチャリンチャリーンと毎日届く☆や収入を横目にしながらちょっといいビールをあおって笑いが止まらない~! という状態から、
大勢の読者
と
広告収入
これを取り除いた状態なわけです。いやどうなのそれ。
誰も読んでくれない作品を書く人。
って何だろうね。
そのあたりのことをつらつら書いたのが、企画に寄せた拙作エッセイ『世界に見捨てられた人々へ捧ぐ』なわけですが。
ちょっと原点に立ち戻ろうと想って、カクヨムの下書き機能を使いながら、公開する予定もなく誰にも読まれないまま、ここ数日、もくもくと小説を書いていたんです。
ぜんぜんイケる。
まさに本人だけが楽しくて書いている状態が毎日、さくさくと何事もなく継続してしまう。
ひと昔前の、自分だけが読者の状態で、原稿用紙や大学ノートに小説を書いているような日々。
というわけで、「読者がいないと書く気がしない」は、あんまりわたしには該当しないのでしょう。
もともと手芸とか苦にならない人なので、家の中で巨大なジグソーパズルでもやってる感じで、その世界に没頭してたらそれでいいみたいな。
ただ、これを一旦、【公開】にしてしまうと、
「……(;^ω^)」
となったりするんですけれど。びっくりして。
あまりにも、読んでもらえる人との格差がすごくて特に長篇。
そういえば、よく作品への批判的な批評で、【読者の方を向いてない】という文言が使われたりしますけれど、あの言葉、ちょっと理解不能かな。
使う人も何を言ってるのかご自分で分かってんのかな~? というくらい意味不明。
読者の方を向く、つまり、読者のニーズに応えるということなのでしょうが、それはいったいどちらの読者さまへ?
出来るだけ大勢の読者を満足させるという意味でしょうか。
少年誌なんかだと、読者に対象年齢を想定していますから、主人公には「読者である少年少女が共感出来る等身大のキャラ」を求められたりしますよね。
でもその他だと、とても共感なんかできないようなキャラが主役であったり、独自すぎる特異な世界が展開していたりして、
「読者の方を向いている」
とは違います。
どちらかといえば、「作者が勝手に展開している面白い世界に、読者が目を向けている」です。
【読者の方を向いてない】
これ、立派な批評の言葉らしいのですが。
え~?
向かなくても、よくない?(笑)
いやそれでは駄目ですよ、ちゃんと読者のために書かないと。
読者が何を読みたいのかを常に意識して書かないと。
そうでなければ、ただの自己満足ですよ。
そんな意見もご尤も。
人の期待にお応えする方向に特化することで人気作品というのは生まれるわけで、それはそれで、「そういう作品を書くために生まれてきた人」なので、何の文句もありません。
まさに、【読者の方を向いている】書き手さん。
自分も他人も満足する最も幸せなレールに乗っていらっしゃるといっていい。
そんな、漫画でいうところの雑誌の巻頭カラーを飾ってしまうような人ではなく、書き手さんの多くは多分、【読者の方を向いてない】でしょう。
まさに云われるとおりで、【読者の方を向いてない】のです。
読者の方を向くということが何を意味しているのかは漠然としていて意味不明ながらも、向いてないのは確かです。
自分の好きな作品を書いているだけなのだから。
なので、その言葉だけをきくと「そうですね」としか云えないわけですが、それではっていうので、じゃあ読者の方を向いてみるかーって云って、流行のものを書いたり、この前のわたしのように「きゅん」を書こうとして頓死しても、それ、書いていて楽しいのかなぁ。
読者を満足させることを最優先にして書くのか、と云ったら、やっぱりちょっと違いますよね。
読者の求めるものを書いて、読者が大勢ついてくる。
または、
読者の方なんか向かずに書いて、でも読者が大勢ついてくる。
こういう方は作家に向いています。
ところが、
読者の方なんか向かずに書いて、やはり読者もこちらを向かない。
こんな方も、作家に向いているのが、作家の面白いところですよね~。
ちょっとだけ上記を補足説明すると、
誰も読んでいなくても書き続けることが出来るっていうのは、作家に必要な要素だからです。
必要な要素っていうだけね。
凄いとか才能があるとかじゃなく。
そしてこれが出来る人は、流行ものはあんまり……な読者が、どうかすると好んでくれたりするの。
前にも書いたかどうか忘れちゃいましたが、テレビで観たんですけど、おじいちゃんになっても漫画家を夢みている人がいて、持ち込みをやっている(今は持ち込み禁止かも)
どんな絵かっていったら、「巨人の星」みたいな絵なんです。昔のままだから。
描き上げたら、それを風呂敷に包んで出版社に持ち込みに行く。
出版社で応対してくれる人も、何か云おうにも云いようがない。絵が古すぎて。
でもストーリーはちゃんとしてるんです。
どんなストーリーかというと、「爆弾三勇士」みたいな(;^ω^)
戦争漫画なの。戦時中から戦後、貸本屋に流通していたような少年漫画。
田舎の家を壊したら土蔵から出て来ましたみたいな、そんな作品。
べつにおじいちゃんは戦意高揚のためにそんな漫画を描いてるわけじゃなくて、ただ自分がわくわくする漫画を描いているだけなんだけど、なにせ古い。
眉毛のぶっとい日本男児がゼロ戦で飛び立ったりして、時代錯誤もいいとこなわけです。
当然、採用されるはずもなく、原稿はその場で全部突っ返される。
「今はこういうの、流行りませんから~」とか云われて。
そうしたら、おじいちゃん、ぺこぺこ頭を下げて、風呂敷包みに原稿を全部包んで、電車で家に帰る。
そして家では、四畳半の、どう見ても貧乏暮らしをしている狭いアパートで、
「ブーンブーン、ブルルーン」
「ひゅるるる。ドカーン……」
なんて擬音語を呟きながら、墨汁とペンで、また次の新作漫画を描いてるんです。
多分あのおじいちゃん、もう死んでる。
そして遺品の、押し入れいっぱいのあの漫画原稿は、すべてゴミとして棄てられたでしょう。
あの、おじいちゃんの姿。
【読者の方を向いてない】あの姿。
あれがわたし。
そしてあの、無名のおじいちゃんの描いていた漫画の、最後の一コマも鮮明に想い出せるのです。
ジャングルの沼か何かに撃墜された戦闘機が突っ込んで(もうなんだかね)、黒々とした沼が、シンと静かになったところで、『完』
この沼のコマがね~。
日本の風土からしか生まれないような、実に畳くさいようないい黒ベタのコマで、今も覚えているわけです。
一度も作品が世に出ることはなかったけれど、一度だけテレビで観た見知らぬ漫画家志望のおじいちゃんは、私の記憶にいまも生き続けている。
今風の絵でも今風のストーリーでもなかったけれど、くっきりと。
読者の方を向かないままでいてくれて、ありがとう。