実はこの小説はだいぶ前、そう今から十年ほど前に書いた小説を書きなおしたものである。エロティックな小説を書こうと思った理由はその頃僕はマルキ・ド・サドやらギヨーム アポリネールを読んでいて、とりわけアポリネールに親しみを覚えていたことにある。
アポリネールというのはあのミラボー橋の詩で有名な詩人・作家でマリー ローランサンやパブロ ピカソと親交のあったポーランド人である。本当かどうかは知らないが、彼は巨大漢で、パリのカフェの椅子を何個も壊したという逸話を持っている。彼はその文才と詩才にも関わらずどういうわけかいくつかのエロティックな小説を書いている。残念ながら詩の方が格段に上等ではあるが・・・。
例えばミラボー橋・・・いい詩だ。
ミラボー橋の下 セーヌは流れる 私たちの愛と共に
Sous le pont Mirabeau coule la Seine Et nos amours
残念ながら家の近くにある
太鼓橋の下 目黒川は流れる 私たちの愛と共に
では詩にはならない。太鼓橋からは秋山大治郎に切られた浪人たちが目黒川を流れていく、という池波正太郎さんの「剣客商売」の一節しか思い浮かばない。パリというのは詩にふさわしい街なのかもしれないし、江戸はやはり時代小説の街なのかもしれない。
パリの16区あたりにあるミラボー橋には、今はもう無きホテル日航パリに宿泊した時何度か散歩で訪れたことがあるが、ここも詩を知りさえしなければなんということはない普通の鉄の橋であった。だが、ローランサンとの恋を清算したばかりのアポリネールは橋の下を眺め感傷に浸ったのだと思うとまた別の感興が沸いたのは事実だ。
その彼が官能小説を書いたくらいなのだから、官能小説は文学の一つのジャンルだと思って差し支えないだろうと思い書き始め、何を思ったか、その頃よくあった自費出版の一つに送ってみた。出版してみませんか(営業担当なんだから当たり前)という連絡はあったものの、官能小説を知り合いに配るわけにもいかん、と思い直して断った。大変済まないことをした。
この小説にはもちろんモデルはいない。ただ、「こんなことをしそう」な女の子は何人か知っている。
女の子というのは不思議な生き物で確かに猫に良く似ていて、家の中で飼われている一匹何百万円もする猫も、野良で生きている猫もいるように様々な生き方をして、それが全て「女の子」と言うカテゴリーに属している。その違いを男性は比較して、「あの子はだめだ」とか「彼女は素敵だ」と言い始める。だが僕らは女性がどんな生活を送ろうと批判をしてはいけない。もし嫌ならば批判をするのではなく近寄らなければいいのである。ひっかかれる猫に近づいてはいけない。なのにどういうわけか男性は自分が彼女の人生を変えられると信じて余計なことを言っては女の子に嫌われる。だいたい男性が女性を変えられると信じること自身が烏滸がましいのである。男によって変わる女性は自らがそれを望んでいるのである。男性はそれをサポートするだけなのだ。猫を思い通りにできる人間がいないように女性を思い通りにできる男性はいない。
・・・何の話をしていたんだっけ。ああ、そうだ。官能小説。谷崎潤一郎だって官能小説を書いた。実際、官能小説だけではなくスカトロジーに近い小説さえある。アポリネールと谷崎潤一郎が書いているなら私的には「なんでもあり」です。
ただ、この小説においても一応僕なりのこだわりがある。それは、セックスと言う行為において、男と女がどうすればイーブンになるのだろうという視点である。動物においてさえ、メスはオスを厳然と拒否する平等さがある。それは時には互いに命を懸けて、という平等さである。人間においてはさすがに命を懸けるというのもどうかと思って、「侵略する行為」「される行為」の平等さを描いてみた。男女のセックスにおいては結局、それが平等さを感じさせないファクトのような気がする。その「結果」における不平等はともかくとして。
いずれにしろ、これは僕の書く唯一の官能小説(まあ、続編もすでにあるのだけど)となる。十年たって・・・僕もすっかり油っ気が抜けてしまった。生物学的には残念なことだけど、まあそれもそれでいいような気がしている。