昨日新規案件が入りまして、鬼と天狗を「討伐」の途中で放りだしたままです^^;
→やはり、どうしても本業優先に……。
ですが、昨日からの鳴海と芳之助の対峙の場面は、どうしても書きたかった場面でした。
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この4年後、鳴海らは戊辰戦争に巻き込まれていくのですが、そのときに考察せざるを得ないのが、「二本松藩内における尊王派と佐幕派の対立」です。
鬼と天狗では早くから、三浦権太夫が丹波の勘気を蒙りしょっぴかれていますが、彼以外の藩士がどのように考えていたのかは、案外史料からは読み取れません。かろうじて、安部井磐根(清介)・丹羽和左衛門、そして中島黄山(彼は民間人ですけれど)が尊王派だったことが、伝えられているくらいでしょうか……。
→江口様も上京して藩侯の潔白を訴えていることから、勤王派扱いされることがありますが、公文書からは確実なエビデンスが取れません。
ですが「二本松藩睦会」(二本松藩顕彰会)に入ってから、少しずつご子孫のお話を伺う機会にも恵まれまして、やはり戊辰戦争当時は、二本松藩内では「佐幕派≒主戦派」がかなり強硬だった……という話を、ぽつぽつと伺っています。
元々二本松藩は徳川家との関係は悪くなく、そう考えると、なぜ文久の頃から三浦権太夫に代表されるように、首脳陣が「尊王攘夷」を嫌ったのかが、大きな謎として立ち塞がります。
天狗党討伐についても、領内で実害がなかった割に討伐に力を入れているのですが、なぜそこまで「尊王攘夷」に対して否定的だったのか、誰も説明していないんですよね(´・ω・`)
そこで私が注目したのが、「藤田芳之助」の存在でした。
二本松藩の記録には一切出てこないのですが、天狗党関連の史料では「二本松藩出身」(ついでに言えば清吉=史実では清五郎も)となっていますし、田中愿蔵率いる散切隊に参加していながら、最後は「棚倉藩の知己を訪ねようとした」など、結構行動動機が謎の人物です。
二本松藩は、藩風として割と「身分差の意識」が緩い傾向があり、「鬼と天狗」でも架空の設定として書いたように、芳之助の祖父が他藩(相馬中村藩)の出身であったとしても、不思議ではありません。
その芳之助と、二本松藩内ではバリバリのサラブレッドである鳴海を対比させたら、どうなるか。そんな思いから、取り上げてみた人物でした。
ですが文字通り、「尊王攘夷の思想に染まり、田中愿蔵の元に身を寄せたことが、彼の運命を狂わせた」。
二人が対立したことは史実には出てきませんが、鳴海率いる5番組は散切隊と何度も顔を合わせていますし、芳之助が知己の姿を敵兵として捉え、動揺したとしても無理ないのではないでしょうか……。
そして鳴海も、芳之助の脱藩時は一介の詰番(とは言っても、藩の中ではかなり上位クラス)でしたが、藩の重鎮として再び向かい合ったときに、どのような決断を下すのか。
そんな二人の葛藤にも注目していただければ、幸いです。