いよいよ、二本松軍も太田の守備につきました。ここまで、「神勢館の戦い」とは別に、御家老(源太左衛門様)が助川海防城包囲戦に参加していたことが判明し、しかも山野辺義芸側から「何度も投降の使者がやってきたが、断固として拒んでいた」という衝撃の事実が。
ただし、この後二本松側は山野辺義芸の投降を受け入れているので、
・源太左衛門様が投降を拒んだ理由
・9/6に山野辺氏投降を受け入れた動機(このときの責任者はなるみん)
の違いが、気になるところです。
タイミングからして、私は大発勢から合流してきた「大津彦之丞」が助川城を脱出したことで、受け入れやすくなったのでは?と考えているんですけれどね(´・ω・`)
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ところで、(常陸)太田についてです。
私は足を運んだことがありませんが、当然その歴史についてはちゃんとリサーチしました。
常陸太田は元々戦国武将である佐竹氏の居城だったところで、結構長いことこの地を拠点にしていたようです。
添付の画像は「日本城郭大系」からの出典ですが、恐らくこれは戦国時代の頃の城郭図。幕末、この城郭のところに「太田御殿」と呼ばれる水戸徳川家の別邸があり、天狗党動乱のときにはそこに佐治などの諸生軍が詰めていたと思われます。
で、鳴海ら二本松藩はその南側にある「西塙」「東塙」と呼ばれる地域の寺や宿に分宿していました。
太田の様子については「常陸太田市史」などを参考にしています。
当時の棚倉街道は水戸と福島県郡山方面を結び、陸前浜街道(現在の国道6号線)に匹敵する主要街道でした。
時には東北諸藩が参勤交代で出府する際に、旅費節約のために宿泊費の安い棚倉街道経由で江戸に向かうことも。
また、先に弘道館の会議(8/27)で「二本松軍の太田守備」が決定していたにも関わらず、すぐに太田に入らなかったのは、額田の辺りの警備のために、壬生藩などの交代要員の到着を待っていた可能性も。
(この頃、額田の辺りに天狗党が集結していました)
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また、さらに「須賀川史談会」の予習のために「須賀川市史3」を読んでいて分かったことですが……。
「鬼と天狗」の前に書いていた、須賀川二階堂氏にまつわる「泪橋」という拙作があります。
この登場人物たちの末裔は、戦国時代に伊達政宗によって滅ぼされました。
ですが全員が死亡したわけではなく、米沢の伊達家から二階堂家に輿入れした大乗院(阿南姫=おなみひめ)を始め、佐竹氏の庇護を受けた二階堂家臣団の一部が、太田に住んでいたそうなのです。
その後、関ヶ原の戦いで西軍側とされた佐竹氏は秋田に移住し、大乗院は再び須賀川に戻り、ある家臣は秋田へ移住(須田氏)。また、家臣の一部はそのまま常陸に残り、子孫は徳川家に仕えたそうです。(安積格之進。先祖は浅賀姓で、二階堂家臣団の一人だそう)
こうしてみると、常陸太田と福島は、二重の縁があったことになりますね。
今では相互に交流があるか不明ですが(苦笑)、歴史の不思議を感じます。