鬼と天狗の『掃討』の後半のメインである、「神勢館の戦い」(二本松藩ver)。
実は、二本松藩側ではあまり記述がない場面です。なので、この場面については水戸藩側の記述の一つ、『水戸朋党の争い : 諸生党からみた記録(大録義行 筑波書林/1986.12刊行)』などを参考に、水戸+那珂川対岸の那珂市の地図と照らし合わせながら描いています。
基本的に皆「自分の藩」のことしか書かないので、割と戦いの全体像を掴むのが難しいんですよね(´・ω・`)
また、ぼやきまくっていますが(苦笑)、同時並行で助川海防城近くで起こっていた「金沢合戦」(というか、山野辺義芸を追い詰めた助川城攻防戦)の南側の受け持ちが、二本松藩の御家老(日野源太左衛門様)だったのは、二本松側の記録から漏れています。
ですが、後で鳴海率いる5番隊が石名坂を任されていた意味も、先に御家老が助川海防城の攻防戦のメイン部隊を担当していたとすると、御家老と交代で助川方面戦線を任されていたと考えるのが、自然です。
久慈川防衛ラインから5番組が外れているのは、このような事情によるものだったのではないでしょうか。
間違っても、「鳴海が番頭就任したてで、戦いを任せるのが心配だった」とかではないと思ふ(^_^;)
後は、総大将が御家老であるのは異論がなかったと思いますが、「副将」を任されていたのは、恐らく与兵衛様。
キャリアからしてもまあそうだよね……という感じではありますが、与兵衛様の太田の宿舎である「法然寺」について、茨城県側の資料で「脇本陣」という記述があったのを見かけたので、神勢館の戦いでは与兵衛様に指揮権を与えています。