まだ主人公を「為氏」にするかどうかは未定ですが、主役交代も視野に入ってきています^^;
それくらい、為氏は情けなさが目立つ……。
そもそも、為氏が須賀川に下向することになった伯父の「民部」の経緯からして、これですから……。
雑な現代語訳で恐縮ですが、よろしかったら、お楽しみ下さいませ。
※小説にした場合は、もう少し台詞などが入ると思います。
~治部大輔下向の事~
>その後、五子孫が相次いで二階堂式部大輔を名乗った。足利持氏の時代、畢竟天下を守護した頃は、四方は平和であり、奥州のうち岩瀬郡を加増された。そこで、本家では一門の治部大輔に数十騎を添えて、須賀川の城郭へ派遣した。
領内は安穏であり、年貢も滞りなく、鎌倉へ納められていた。
だが、永享11年2月10日、足利持氏が逝去した後、鎌倉で兵乱が起こった。嘉吉元年6月24日に普光院殿滅亡の後、国々は乱れ重代伝えられてきた所帯を権威を持って押し取り父母に背き、兄弟を失い、無道猛悪の世となり、人倫の孝行は日を追うごとに廃れていった。一人が正しければ、万人がそれに従うのは分明である。古の武者は乱を治め徳を広めたが、今の武者は乱を好み徳を捨て、皆武力を振るうばかりである。
こうして、式部大輔殿は嘉吉3年2月に逝去した。子供が一人いて、12歳で元服し、その名を二階堂遠江守為氏といった。未だ幼少であったので、須賀川の治部大輔は武威をほしいままにし、町人あるいは領地の百姓、侍筋の浪人に好き勝手の所帯を持たせ、恩賞を与え、ついには兵120騎、数多の野伏を手下とした。あたかも岩瀬の太守のごとく振る舞い、法を犯し、驕りを極め遊観に耽り驕ること甚だしかった。心の底から欲に染まり後日の災いを顧みず、鎌倉への年貢米も滞るようになった。
鎌倉では、御一門や四天王が建議して、式部大輔の弟君で為氏公の伯父に当たる民部大輔を須賀川に下向させることにした。
民部は治部に対面して、一々詮議した。
「鎌倉へ一言も伝えず町人や百姓に勝手に所帯を持たせ、岩瀬一群の主のように振る舞っているのが、第一の罪。城に籠もり謀反を起こそうとして現地の浪人を数多召し抱え、兵糧を蓄えているのが、第二の罪。驕りを極め人民を悩ませているのが、3つ目の罪。年貢を運上しないのが、4つ目の罪。約束に背き、先例のない賦役を掛け、民百姓からみだりに貪り取っているのが、5つ目の罪。この五逆は皆が述べているところである」とありのままに伝えた。
それに対して、治部は次のように答えた。
「私には、全く岩瀬郡の主になるために恩賞を与えているのではない。これらは義を重んじ、節義に臨むとき、命を思うことは塵芥よりも軽く考える者たちであれるからこそ、多少の恩を与えているのである。そのために彼等が勇を振るい、今まで他の敵を寄せ付けず、領内は安穏だったのだ。兵糧を蓄えているのも全く私心のためではなく、隣国の大敵が馳せ向かってきた時に、籠城して敵を防ぐためである。もし兵粮米を蓄えていなかったら、兵は疲弊し防戦する者は居なく生るだろう。そして敵に領地を奪われるにとどまらず、米穀は一粒も残らないだろう。利はわずかであり、大損するだけである。私には些かも謀反の心などない。私は驕慢を好まず、百姓より貪り取らないというのは、世の中の人んい広く知られるところである。両年の年貢が運送できなかったのは、領民が飢饉の愁いを抱えていたからである。これは我が身可愛さのためではなく、領内の守りを堅固にするためである。私は正しくない事をしてるのではなく、道理に背いたり、賄賂に耽ったりしているのではない。私心は些かもなく、脅しをかけて政を行っているわけではない。だから領内は今まで静謐なのだ。速やかに鎌倉へ参上して自ら罪のないことを弁解したい」と、一度は憤り一度は歎いてみせ、言葉を尽くして陳述した。
これを見て民部大輔は顔色を和らげ、「貴殿の私心による曲解でないことは、心から納得した。私が此の度の罪を申し開き、皆をなだめよう」と座席を立ったところ、治部大輔は非常に喜び、北沢というところに新しく城郭を作り、そこへ民部大輔を移してもてなすこと限りがなかった。
民部は鎌倉で浜尾というところに住んでいたので、その地にちなみ、ここもまた浜尾と呼ぶようになったということである。
そうして、翌年の春、治部大輔の妹の千歳御前という容色類まれな姫を嫁がせ、民部の北の方にした。この姫君は、古の西施のような顔立ちであったという。千歳姫は薄化粧の時も美人で例える様子がなかった。
民部も岩木ではない。やがて姫君と情をかわすようになり、言の葉ごとに露の如く疑うことはなく、共に同じ穴に住んでいるかのごとく交わっていると噂されるようになった。治部大輔はますます驕り、主君の財産を横領し財を貪り、人民百姓を悩ますこと限りなく、居丈高になり、悪事を好むことしきりであった。