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何も起こらなかった世界〜He didn't cause the accident.〜 4

「で? そんな、何年も前のこと持ち出してどうするつもりだよ、伊吹」
 
 自分の言葉に、伊吹はのろのろと、俯いていた首を上げた。

「お前、もう29歳だろ。で、だからずっと親父と連絡とってなかったとか言うつもりか?」
「だって、親父は、大学卒業する時、もう食事会はいいって
……」
「そりゃ、お前が就職したら、お前の監督責任は無くなるからな。でもさ、だからと言って、今まで親父の事、無視していいと思ってたのか」

 自分は、思い切りこの白々しい義弟を睨んだ。

「彰兄ちゃんはさ、あの人、親族達にいい思い出ないけど、ちゃんと盆と正月には親父に顔見せてたよ。それに引き換え、お前はどうだよ。盆も正月も親父に顔見せなくて、今更自分に迷惑が掛かりそうって思った途端、白々しく連絡とってきて」

 ふつふつと、怒りが湧いてきた。

「親父の気持ち考えろよ! お前の事だって息子と認めて金も十分かけてたのに、当のお前は親父の事を無視してさ! 息子に自分の情けなさを告白するの、どれだけ辛いか分からないのかよ! それであれだろ! 自分には何も降りかからないと思ったら、また親父を無視するんだろ! こんな一時の事のために、親父にまた負担かけようとするんじゃねえよ!」

 しかも、と自分はまた沸いてきた怒りのまま、自分は義弟を指差した。

「さっきから聞いていれば、彰兄ちゃんが教えなかったから、とか、親父が何も言ってなかったからって、誰かのせいばかりじゃねえか! お前本当にいくつだよ! もう30歳近い癖に、いつまでも他人のせいにしてるんじゃねえよ!」

 イライラする気持ちのまま、自分は席をたった。

 私服が入った紙袋を持って、入り口へ行く。

「ま、待てよ、和樹! どこ行くんだよ!」
「帰る。もうお前に話す事はねえよ」

 伊吹は、立ち上がって自分の肩を掴んできた。

「親父の事、聞いてねえよ! おじさんが、本家がもう無くなるって言っててさ! 親父は今どこに住んでるんだよ!」
「……親父は、俺が建てた家で同居する事が決まってるから。今俺名義で家を建ててる」
「は!? なんで、勝手に!」
「お前は、親父が自分に迷惑かけなければそれでいいんだろ」

 振り向きざまに、義弟の手を振り払う。

「違う! おじさんも、俺も、親父に、俺たちの事頼って欲しくて……!」
「まだ分からないのか? 親父はそっちに迷惑をかける気はねえんだよ」
「違う! 迷惑とかじゃなくて、」
「お前、ずっと親父と連絡取ってなかったのに、なんの役に立つ気だよ」

 その言葉に、伊吹は息を呑んだ。

「何もできねえだろ。お前が会社をどうにかする気だったのか? 無理だよな、できねえよな。愚痴ぐらい聞いてやるって? お前が誰と繋がってるのか分からないのに愚痴も言えるわけねえだろ。親父に頼って欲しいって遅すぎるんだよ。今更だよ。もう、そういう段階じゃねえんだよ」

 自分は、伊吹に掴まれてシワのよったジャケットを羽織り直した。

「親父さ、会社終わった後の事、楽しみにしてるよ。なんか、自分で自分のこと決める経験、全然なかったらしくて、次の仕事、楽しそうに決めてる」
「……」
「孫の――俺の子供の事も可愛がってくれてる。俺の嫁も親父とうまくやってくれてる。頼むからさ、手を出さないでくれよ。やっと親父、自分の人生、歩めそうなんだから。親父にこれ以上負担かけないでくれ」

 俺、迷惑をかけたから、その分親孝行したいんだよ、と、本音を義弟に言う。

「俺は、親孝行しちゃ、いけないのかよ……」

 伊吹は、青い顔のまま、そう言った。
 それに、なんでか哀れになる。だから、自分はため息をついてから、「分かった」と妥協をした。

「……じゃあさ、今は手を出すな。何もするな。彰兄ちゃんにも言っておいて。会社の事が全部片付いたら、話聞きたければ話すから。それまで待てよ」
「い、いつまで」
「言えねえよ。事業の売却先の事も色々あるから」

 自分は、伊吹に完全に背を向けた。そして、カバンから、親父に託されていた封筒を出した。

「これ、金。親父がお前にばかり負担させるのはちょっとって。まあ、親父もこんなに高級ホテルとは思ってなかったみたいだから、これで足りるか知らないけど」
「い、いいって、そんな……」
「受け取っとけよ。親父にも面子があるんだから」

 それを言うと、伊吹は、渋々、と言った様子で受け取った。

「最後に、言っておくよ」

 自分の言葉に、伊吹はゆっくりと顔を上げた。

「俺、親父に散々迷惑かけたから、もう本当に親父に苦労してほしくねえんだ」

 伊吹は、封筒を強く握っていた。

「お前が俺を許せないのはそれでいい。俺だって、お前に許してもらえるとは思ってない」

 嫉妬のあまり、幼い頃のこいつを殴って、半ば本気で、死んでしまえ、と思って、冬場に地下の座敷牢に閉じ込めて。

「でも、親父と家族は絶対に巻き込むな。そっちに手を出したら、俺はお前を絶対に許さない。だから、絶対に、手を出すなよ、伊吹」

 向き合った伊吹は、途方に暮れたような顔をしていた。
 
 誰にも頼れないとも思っていそうな、そんな、ひとりぼっちだと思っているような顔をしていた。

 哀れだな、と、義弟と言っても30も近い男に思うのもおかしい事を思う。けれども、それだけだった。自分の肩には、道を正してくれて、夢も応援してくれた妻や、妻と結婚するきっかけをくれた子供や、散々迷惑をかけて、たくさんの苦労をかけてしまった父が乗っている。彼らが、自分を真っ当な道を歩めるようにしてくれている。

 その3人を傷つけるような事があれば、いくら義弟と言っても許さない。

 その思いを込めて、義弟の顔を睨む。

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