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アウトサイダー ノット フレンド/コラボレーター ブラザー 終わり

 見上げた兄の顔は、記憶の中のままだった。

 穏やかで、優しい笑み。
 久々だった。俺が、まだ中学生だった頃、俺にむけてくれた顔そのままの顔を、兄は――籤浜大志は、俺に向けていた。

 嬉しかった。
 俺の背中をさするその手は体温なんて感じられないほど冷たいけど、手つきは優しくて、俺は嬉しくて、悲しかった。

 どうして、俺は伊吹に、兄さんの優しさを伝えられなかったのだろう。

 どうして、親子がすれ違っているのを、そのままにしてしまったのだろう。

 それを思うと、また後悔に視界が滲む。兄さん、と俺は、ぐしゃぐしゃの顔で、兄を呼んだ。

「ごめん、ごめん、俺、兄さんをずっと、」

 兄は、頷いた。
 
 ――ありがとう、彰。

 兄さんの言葉に、俺は目を見開いた。

 ――知ってるから。伊吹の事、ずっと助けてくれてんだろう。

 ――ありがとう、彰。伊吹を、私に縛り付けずにすんだ。

 俺は、首を振った。
 ありがとう、なんて、俺には言われる筋合いがない。俺が兄さんを1人にしたから、兄さんは死んだのに。

 ――和樹の事も。お前のおかげだよ、ありがとう。

 兄さんは、優しく笑っている。
 でも、俺はその笑みに余計胸が苦しくなった。
 
 罵って欲しかった。許さないって言って欲しかった。

 でも、この人は俺を許してしまう。この人を顧みなかった俺を、いいんだって、言ってしまう。

 この人が助けてくれたから、俺は生きているのに。
 この人を死なせてしまった俺を、兄は許している。
 
 俺は、どこかで気がついていた。

 兄さんが素直になれば、みんな、うまくいくって。

 兄さんは不器用なのも知っていたから、俺が、兄さんに本音を喋らせておけば、その手助けをしてやれば、きっと、伊吹も兄さんと和解できた。もしかしたら、伊吹は会社を継いでくれて、上手い事立て直していたのかもしれない。そんな未来があったのかもしれない。俺が、兄さんと向き合っていれば。味方に、なってやれば。

 なのに、俺はそれをしなかった。俺の記憶の中の兄さんが崩れるのが嫌で、俺は目の前の現実の兄さんと向き合うことから逃げた。兄弟なのに。俺にとっては、たった1人の兄なのに。

 家族、だったのに。

 兄さんのことを、俺は、依存して、消費して、踏み躙っていたのに。
 兄の優しさに、嬉しくなってしまう卑劣な自分が、もう嫌で嫌で、たまらなかった。

 兄さん。
 俺、最近、すごく考えるよ。
 兄さんが俺にしてくれた様なこと、俺はできるかなって。

 母親を失った子供に、味方なんて誰もいない、なんて拗ねている難しい年頃の、振ってわいた腹違いの弟に、あれだけ優しくできたかなって。父がもう病床で、兄さんは会社の事も忙しかっただろうに、和樹の事も兄さんが1人で色々しなくちゃいけなかったのに、俺の事まで、抱え込んでさ。

 他の親族に虐められてた俺を庇ってくれてさ。
 母の形見の指輪も取り返してくれてさ。
 馴染めなかった本家から逃がしてくれて。
 高校からのアパートの家賃払ってくれて。
 俺の進路も一緒になって考えてくれて。

 自慢の弟だって、俺に言ってくれた事あったよな。嬉しかったよ。だから、俺はどんなに辛くても、道を踏み外さないって誓ったよ。兄さんの信頼を、裏切りたくなかったから。真っ当に生きるって誓ったよ。

 でも、俺は兄さんを裏切った。

 兄さんを1人にして、兄さんを死なせてしまった。
 いつまでも、兄さんと向き合わなかった。
 
 怒ってやるべきだった。

 なにがいいんだよって。
 俺も兄さんの事、気にしちゃ悪いのかよって。俺を頼ってくれよ、1人で抱え込むなよ馬鹿って、言わなくちゃいけなかったのに。

 でも、言わなかった。
 
 勇気を出して、初めての兄弟喧嘩を、しなくちゃいけなかったのに。

「俺を、頼ってくれよ。そんなに俺、頼り甲斐なかったかよ。俺だって兄さんに恩を返したかったよ」
 
 ようやく出てきた本音は、なんて無意味な響きか。

「俺、俺、立派になったよ。兄さんを助けられるよ。兄さん、知ってるか、1人で出来ることってたかが知れてるんだぞ。そんな事も知らなかったかよ馬鹿。素直に言っていいんだよ。子供が死んだら誰だって悲しいよ。今ならすごく分かるよ、兄さんの気持ち。男だって泣いていいんだよ、兄さん」

 目の前の兄さんの姿が、薄れていく。俺は、ぐしゃぐしゃな顔で、首を横に振った。

「自慢の弟だっていうなら、俺をもっと頼ってくれよ。俺は、他の親族と違うよ。兄さんの事、気にかけていたよ。本当の本当に、気にかけていたよ」

 気にかけていただけだった癖に、俺は何を。
 兄さんが、素直になるのを、俺は待っていただけだったのに。

 子供の頃と同じように、兄さんが手を差し出してくれるの、俺はただ、待っていただけなのに。

「馬鹿。馬鹿、馬鹿兄さん。ごめんよ、ごめん。伊吹、連れて来れなくてごめん、兄さん。2人で兄さんに謝らなくちゃいけなかったのに」
 
 伊吹と、ここ最近、連絡が取れない。

 犀陵の兄弟は、伊吹は体調が悪いのだ、とか言っていたが、これは本当だろうか。あの兄弟の伊吹への執着はよく知ってる。伊吹は、それのせいで、酷い目にあっていないだろうか。
 兄さんが建てたアパートの管理も、伊吹がしていたのに、最近は管理会社がしていた。――伊吹が、兄さんのアパートの管理を、誰かに任すような真似、するだろうか。

 ――彰。

 薄れていてもよく分かる兄さんの真剣な顔に、俺は息を呑んだ。

 ――お前に、頼みたい事がある。

 ――お前にばかり頼ってすまない。でも、お前しかいないんだ。

「な、なに」

 俺は、兄さんの言葉を聞き逃さないように、呼吸を止めて兄さんを見つめた。兄さんは、怖さすら感じる真剣な表情を、俺に向けている。

 ――伊吹は、ずっと犀陵の兄弟の下に監禁されている。

 やはりか、と俺は思った。

 ――ベッドに拘束されて、弟の方に悍ましい行為を強要されている。兄の方は止めず、弟に協力ばかりしている。伊吹は、そこから逃げ出すために、自殺すら考えている。

 自殺という言葉に、強いボディーブローを食らっているかのように俺は感じた。伊吹まで、自殺をすると?

 ――私では、伊吹を助けられない。頼む、彰。伊吹を、助けてくれ。

 兄さんの言葉に、俺は考えるよりも先に頷いた。兄さんが、俺を頼ってくれた。ようやく、俺に助けを求めてくれた。なら、それを裏切る訳には、もういかなかった。

「分かった! 絶対に伊吹を助ける! 兄さん、絶対に!」

 兄さんの表情は、もう分からない。でも、僅かに見える口元が、笑ってくれた気がした。兄さんのその頬に、涙の跡が見えた、気がした。

 ――彰。

 兄さんの、低い、優しい声が聞こえる。


 ――お前は、本当に、私の唯一の、自慢の弟だよ。


 そう言って、兄さんの姿は。
 小さな風に流されて、完全に見えなくなった。

 俺は、風の方向を呆然と見つめる。兄さん、と俺の無意識に溢してしまった、兄さんに縋る声が、情けなく風と一緒に流される。
 
 これは、奇跡だったのだろうか。
 それとも、俺の願望が見せた幻覚だったのだろうか。

 そういえば、と俺は気がついた。兄さんが俺に話しかける直前に、誰かがいた気がする。俺は、長い石の階段の方に視線を向けると、俺でも知っている高級化粧品ブランドの名前が書いてある紙袋が境内の砂利の上に落ちていた。駆け寄ると、その中身は線香が1束と数珠と、なぜか未開封のラムネの瓶が2本入っていた。

 ラムネの瓶を持ち上げてラベルを読むと、長年、瓶ラムネを販売している会社のものだった。そういえば、兄さんは、口の中をスッキリする感じがいい、と炭酸飲料を好んで飲んでいた。俺にもよく奢ってくれて、一緒に飲んだ。

 ラムネの瓶はまだ冷えている。この辺りは自販機はあるがラムネの季節というと大分ズレているから、ペットボトルや缶のソーダはともかく、瓶のラムネは売ってない。これは、この袋の持ち主がわざわざ持ってきたのだろう。

 また袋の中を調べていると、紙袋の厚紙の中敷きの下に、メッセージカードがあるのを見つけた。それを取り出して、読む。

 犀陵玲奈様、とそのメッセージカードには書いてあった。長年のご愛顧の礼と今後ともご贔屓に、みたいな内容が手書きでメッセージカードに書いてあった。

 ――犀陵玲奈。
 ――犀陵。

 俺は、慌てて石階段を下った。犀陵なんて名字は珍しいから、俺の予想が当たれば、この紙袋は犀陵の人間の物だ。

 兄さんの頼み事を思い出す。伊吹は、あの犀陵の兄弟の下に監禁されていて、自殺も考えていると。助けてほしい、と兄さんは俺に頼んできた。頼ってきた。

 だから、俺はこの紙袋の持ち主を探す事にした。もしも、犀陵の兄弟のどちらかだったら、伊吹について追求しなくては。

 そうじゃないなら、一先ずどういうつもりでこの寺に来たのか聞いてから、伊吹を助け出す為の足掛かりにしないと。

 もう、絶対に俺は、兄さんを裏切れないのだから。

 









 






 瀬川彰は、急いで階段を駆け降りる。
 そして、見えてきた恰幅の良い体型の、白髪の多い頭の男性を見つける。ふらふらと、その男性は手ぶらで、不安定な足取りで階段を降りていた。そんな彼の肩を、瀬川彰は掴んで振り向かせた。

 そして、犀陵時次は、振り向いた。久々に会った瀬川彰の顔をよく見て、似ているけれど、親友と信じていた男ではないのだと、自分によく言い聞かせてから、挨拶をした。

 そして、2人は手を組んだ。

 
 
 犀陵千秋と刹那に囚われている、という籤浜伊吹の為に。

 親友だと思っていた、憧れていた男の為に。

 もう兄を裏切らない、唯一の、自慢の弟でいる為に。

 2人は、手を組んだ。

 


 陽に照らされた長い石階段の上。並んで座って、長く話す2人の背後には、2人の黒い影が落ちている。
 
 その影に紛れるように、籤浜大志は、複雑な面持ちで、犀陵時次と瀬川彰の背中を、見つめていたのだった。

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