ようやく階段を登り切った時、私は息絶え絶えだった。
大志も、この階段を登った筈だ。大志は痩せ型だから、この階段も難なく登ったのか、それとも、私と同じく息絶え絶えだったのだろうか。それすらも、私は知らない。
本当に、大志はなんでこの寺に頼んだのだろうか。
そんな事を思いながら、俯いていた頭を上げた。そして、私は目を見開いた。
「大志……」
大志が、いた。
平日の昼間だから、境内はがらんとしている。だから、誰かがいれば、すぐに目立つ。
よく掃除された境内の中、階段から離れた場所のベンチに座って俯いていたその人は、間違いなく籤浜大志だった。
はは、と、私は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
――全て、悪い夢だったのだ。
大志は死んでない。だって、ここにいる。
ベンチの上の大志は、40代くらいだった。ああ、じゃあきっと私も同じ年齢だ。私には孫がいる気がしたが、それは気のせいだ。
40代くらいというと、長男の千秋が小等部から中等部に進学したくらいだろう。
妻が私に教えてくれた。千秋の担任教師が「籤浜伊吹」という名前の少年と千秋は仲が良いと言っていた、と。籤浜、という名前に私は嬉しくなった。
大志の息子だとすぐに分かった。
血は争えないな、と思ったのだ。私と大志の様に、千秋も大志の息子と仲良くなるなんて、運命だと思った。私も大志の息子と仲良くなりたくて、千秋に伊吹くんを家に連れてこい、と言ったが、千秋は伊吹くんを家に連れてこなかった。
……後年、千秋に「父さんの勢いに、伊吹が絶対に引くと思って、家に連れてきたくなかった」とか言われた気がしたが、これは気のせいだ。刹那が、「父さんのせいで、俺と伊吹の出会いが遅れた」とか恨み言を言っていた気もしたが、これも気のせいだ。千秋が中等部の時、刹那はまだ小学生の筈だ。人見知りで友人なんて全くできなかった息子だ。
息子達の事はいい。今は、久々に大志と色々話したい。偶然だな、元気にしてたかって、肩を叩いて話したい。
私は、久しぶりに感じる感覚のまま、大志に歩み寄る。そして、気がついた。
大志は、泣いていた。
俯いて、履いている真っ黒なスーツのスラックスの膝の上に涙を落としていた。私は、たじろいでその場に立ち止まってしまった。
大志が泣いている姿なんて、初めて見た。
学生の時も、大志が泣いている姿は見た事がない。大人になってからの大志は、あまり表情が変わらなくなったから、尚更、私は衝撃だった。
そうだ、と私は思い出した。
――籤浜の会社は、大不況で大変な事になっていたらしい。
――担当の銀行員は阿漕な奴で、業績が悪い会社の融資の金利をすぐに引き上げようとしてくる奴らしい。
そうだ、大志はそれで泣いているに違いない。それはいけない。私が、親友として大志を助けなくては。大志に、1人じゃないぞって、伝えに行かないと。
手遅れになる前に、私が大志をこの世に繋ぎ止めなくては!
私は走った。膝や階段登りで疲れた体の事なんて忘れて、ベンチに座る大志に駆け寄った。体が重い。妻の言うことを聞いて、ダイエットしておくんだった。これは筋肉だ、とか骨太とか言い訳するんじゃなかった。
でも、大志は直ぐ近くにいる。私の手が届く場所にいる。やっと、助けが間に合う。やっと、私は大志の親友として胸を張れる。
大志に、見合う男になれる!
砂利の中を走る、走る。そして、私の声が届く位置まで大志に近寄れて、私は大声で、大志の名前を呼ぼうとした時だった。
黒い影が、私の目の前に現れた。
その黒い影は、まるで私と大志を阻む様に突如私の目の前に現れた。私が、どけ、と叫ぼうとしたよりも先に、その黒い影は口を開いた。
――私の弟に、一体何の御用か。
私の足が、止まってしまった。
黒い影から発せられたその声は、まさしく大志の声だった。
「た、大志……」
そこにいたのは、黒いスーツを着た、大志だった。
白髪混じりの頭、年相応に老けた顔。40代ではない。還暦ほどの、籤浜大志の姿だった。大志が亡くなった時、そのままの姿だった。
――私や伊吹に飽き足らず、貴方方犀陵は、彰にまで手を出そうというのですか。
大志の声が、脳に直接響く様に聞こえる。
――どうして、貴方は私をそこまで憎む。私が、一体何をしたというのですか。
大志が、私を睨んでいる。
冷たい顔。嫌悪の瞳。そんな目で、親友だった私を睨んでいる。
――私は、犀陵から守らなければなりません。せめて、彰だけでも!
「ちが、ちがうよ、大志……」
嫌ってなんかない。むしろ、その逆だ。
私は、大志を、ずっと助けたくて。
大志の事が、大好きで、共にいたくて。
なのに、大志は私を嫌悪と軽蔑の色で睨んでいる。ベンチの上で、涙を流す、40代の大志を守る様に立ち塞がっている。
――お帰りを。貴方はこの寺に用事はないでしょう。それとも、私のように、彰にまで付き纏っていたと? 彰に、貴方の息子が伊吹にしているような事をしたいと?
ふと、思い出した。
千秋の秘書で、私の元秘書である加賀美から、数日前、気になる連絡があった。今現在、千秋と刹那の側で働く、大志の息子の伊吹くんが、ずっと出社していない、と。刹那も会社を休みがちだと。千秋は、何か知っているようなそぶりだと。
息子達は、伊吹くんに、何をしている?
――これ以上、私の大切な家族を貴方方に傷つけられる訳にはいかない。あと一歩、彰に近寄ってみろ。私が、貴方を殺します。
大志は、殺意に満ちた目で私を睨んだ。
――私だけならどうなってもよかったのに! どうして、息子と弟まで! そこまで、私が憎いか、犀陵時次!!
「あ、あ……!」
私は、一歩、下がった。
下がってしまった。大志を助ける為の腕を、下ろしてしまった。大志から、私は離れてしまった。
もう、私はこれ以上、大志から逃げては、いけなかったのに。
「にい、さん?」
大志とは、違う声が聞こえた。
見ると、40代の大志が、こちらを見ていた。大志の背中を見て、大志そっくりのその黒い瞳を見開いていた。
「兄さん! 兄さん!」
――彰、そこにいなさい。
大志は、40代の大志に、そう言った。
――私がお前を守るから。だから、そこにいなさい。
「もう、もういいよ! もういいよ、兄さん!」
彰と呼ばれた、40代の大志は、そうして、まるで子供のように泣き喚いた。
「俺、俺、馬鹿な弟だった!」
ベンチがひっくり返るような勢いで立ち上がって、40代の大志は叫んだ。
「兄さんが手を差し出してくれるのを待ってるだけの、甘ったれだった! 俺、兄さんに沢山助けてもらったのに、俺は、兄さんを、助ける事もできず……」
40代の大志は、そうして、大粒の涙を流していた。
「ごめん、ごめん、兄さん。兄さんを裏切っていて、本当にごめん。本当に……」
40代の大志は、それ以上、何も言えず、砂利の上に崩れ落ちてしまった。
大志の顔が歪んでいる。40代の大志――いや、弟である、瀬川彰の元に行きたいのだろう。でも、私がいるから、そちらに行けないのだ。
私という、大志の敵は、邪魔者は、ここにいてはいけない。
私は、大志から背を背けた。
ふらふらと、力の入らない足を動かして、大志から離れた。先ほど、ようやく登り終えた階段に向かった。
階段を降りる直前に、私は振り返った。大志は、まだそこにいてくれた。穏やかな笑みを浮かべながら、弟である瀬川の背を、優しく撫でていた。
そういえば、大志はああして笑うのだったな。
冷たい印象を持たれがちな顔に、ああして、穏やかで優しい笑みを浮かべるのだったな。
ずっと、忘れていた。
階段を下る。
後悔が、また増える。
大志から、逃げてしまった。
私が大志を憎んでいる、なんて、大志に思わせてしまった。
憧れの人なのにな。
大好きなのにな。
その思いは、全部、私の自分勝手だったのだと、私は、ようやく気がついた。
大志が、初めから私の事を親友なんて思ってもいない事に、私は、ようやく、思い知った。
空を見上げる。
でも、それでも耐えきれなかった後悔が、何粒も、石段の上に跡になって続いていく。
その跡は、いつまでも傷跡のように、私の胸を蝕んでいったのだった。