「……分かったよ」
義弟は、そっと顔を逸らした。
「初めから、お前の奥さんや子供に手を出す気なんて、初めから、ないよ、本当に」
「どうだかな」
「本当に、本当に立派になったと、思ってるよ、和樹。――羨ましい、くらい」
自分は、ため息をついた。
亡くなったとはいえ優しい祖母に恵まれて、彰にも可愛がられ、父にも認められていて、仕事も大手企業。そんな順風満帆な人生を歩んでいる義弟が、自分に一体、何を羨ましがると言うのだろうか。
「お前も皮肉が上手くなったもんだな」
「皮肉じゃねえよ。お前、昔から俺が欲しいもの持ってる。家族が、いるじゃねえか」
「お前だって婆ちゃんがいたし、親父も月一で様子見に行ってたろ。家族が今欲しいのなら結婚したらいいだろ」
「婆ちゃんは、もう亡くなってるよ。結婚、は、俺……」
伊吹が、小声で何か言う。
一瞬聞き返そうかと思ったが、お互いそこまで踏み込むのは良くない、と考えて口を噤む。でも、なんでか「こわい」とか言っていた気がするが、きっと気のせいだろう。
「とにかく、俺はもう帰る」
「食事してけよ」
「お互い、話すこともないだろ」
妻には、今日は遅くなる、としか言ってない。夕飯はいらないとは言ってない。
「じゃあな、馬鹿伊吹。クソ親族達にこれ以上騙されるなよ」
「……だから、彰おじさん以外、俺、連絡先も知らねえんだって」
「そうかよ。まあ、お前の事はもうどうでもいいけどな」
お互いがお互いに抱えているだろう、「どうでもいい」という本音を、こちらから言ってやる。義弟が――伊吹がどんな顔をしているのかは、背を向けているこちらからは分からなかった。
そして、自分は個室から出て行った。すれ違った、あのいけ好かないウェイターは「またご利用ください」と、確実に社交辞令だな、という言葉をかけてきた。
それを無視して、自分はレストランから出て、ホテルから出る。
スマホの画面の時計を見ると、レストランに通されてから1時間程だった。これから急いでバイクに乗って帰れば、家族の夕食に間に合うかもしれない。スーツを脱ぎ捨てる暇も惜しい。子供も最近遊んでやらなかったから、帰ったら遊んでやらないと。
そういえば、妻が会社の事にケリが付いたら、お祝いに父を含めた家族で旅行に行こう、なんて言ってくれた。温泉でゆっくりしよう、とか。
いいな、と思う。
親父も何も考えずにゆっくりするなんて久方ぶりだろうから、きっと喜んでくれる。帰ったら夕食の後、その相談を家族全員でしよう。
やっと掴めた幸せなのだから、殊更、大事にしよう。
バイクを停めた駐輪場に着くと、ふと思った。
伊吹には、こんな家族全員で旅行の計画とかした事あるのだろうか。祖母は高齢だから遠くには行けなかっただろうし、もう亡くなっている。彰には、家族がいる。じゃあ、伊吹には?
――もしも、タイミングが合えば、あいつも旅行に誘うか?
そんな事を思って、馬鹿な事を、と、自分は苦笑した。
伊吹の関心は、自分に迷惑が掛かるかどうか、だ。仲の悪い義兄とその家族となんて旅行に行きたくないだろう。父とだって、あいつは今日ああだこうだと言っていたが、就職してから会おうとしなかったあたり、内心、父の事を鬱陶しがっていたのだろう。そんな義弟を家族旅行に誘おう、なんて自分も馬鹿な事を。
でも、何でか別れ際に見たあいつの様子が思い出される。この世界に独りぼっち、とでも思っていそうな、所在なさげな、頼りのない姿。そんな事はないのに。彰もいるだろうし、あんなホテルのレストランの個室の伝手もある友人もいるらしい。なら、今更血の繋がりなどに、あいつも頓着しないだろう。恋人だってもしかしたらいるのかもしれない。
あいつの事は、気にしなくていい。
彰がいるのだから、きっと会社の事が完全にケリが付いたら向こうから連絡が来る。伊吹から連絡が来たら、その時に考えればいいのだ。
そして、自分はバイクに跨った。
ヘルメットをしっかりと被って、ここで死ぬ訳にはいかないから、安全運転を意識して、道路を走る。不思議と、昔から感じていた焦燥感は感じず、どれほど他の車両に追い抜かれても、走りやすそうな見通しのいい道でも、警察に褒められるくらいの安全運転で、帰路に着く。
今、家族と父とで仮住まいをしているマンスリーマンションに着いて、バイクを降りた。
元々住んでいた本家は、既に解体工事の真っ最中だから、自分名義の家が建つ間、このマンスリーマンションで仮住まいをしているのだ。父は、「中はこんな感じか」と感心した様子だった。父は自分も知らない内にアパートの大家になっていたから、色々と興味深そうにしていた。父が本家は手放しても断固として手放さなかったアパートと比べて、ああだこうだと言っていた。
なんでも、今検討をつけている再就職先が、賃貸物件の管理の仕事らしい。再就職したら、まずは共用部分の清掃員からスタートだとか。あの父が清掃員になる、と聞いて、なんだかおかしくなったものだ。腰には気をつけろよ、と言っておいた。気の利く妻は、湿布を薬箱の中に補充していた。
その時の事を思い出して、笑いながら、階段を登る。そしてたどり着いた扉の前に来て、ポケットから鍵を取り出して扉を開けた途端、子供の笑い声が聞こえてきた。父の声も聞こえる。幼稚園の話を、聞いてやっているらしい。妻の「おかえり」という玄関まで響く声も聞こえる。
だから、自分は廊下を歩いて、リビングに続く扉を手にかけて開けた。思っていた通りの幸せな光景が広がっていた。
「ただいま」
おかえり、という言葉に、自分は笑った。
心から、幸せだなって、自分は思っていた。
――気が付けば、義弟の事なんて、完全に頭から消え去っていたのだった。