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何も起こらなかった世界〜He didn't cause the accident.〜 2


 確かに、自分の仕事であるバイクの整備士という仕事は、下に見られがちというのは自覚していた。スーツなんて滅多に着ない仕事だ。こいつのような、オフィスの中の設計の仕事とは違う。でも、だからと言って職業差別のような嫌がらせをしてくるなんて、こいつも本当に性格が悪くなったものだ。まあ、大元の原因が自分なのは、自覚しているが。

「失礼します」

 部屋の外から声がして、またあのお綺麗な顔のウェイターが入ってきた。
 自分は水だが、伊吹の方はレストランの手前、食前酒を注文していた。それぞれの飲み物がグラスに入っていて、提供される。変わらずのお綺麗な顔と和かな笑み。なんだか、馴れ馴れしさすら感じる笑みだった。嫌な笑い方だ、と思う。まあ、どうせ直ぐ出るのだから、短時間ぐらい、我慢できる。自分だって変わったのだから。

「……申し訳ないですが、まだ食事は出さないでください。父が、来てなくて」
「かしこまりました」

 伊吹の発言に、自分はまたため息をついてしまった。

 ウェイターが出て行くのを見計らってから、自分もグラスに手を伸ばす。一体、この水にどれほどの値が付けられているのだろう。

「親父は来ないって言ったよな」

 一口、喉を潤してから自分はグラスを置いて伊吹を睨む。伊吹は、負けじと睨み返してきた。

「……呼び出してくれよ」
「じゃあ、お前が呼べよ。それなら、応じるかどうかは親父次第だから」

 伊吹は、ぐ、と推し黙る。

 伊吹は、そもそも父の連絡先を知っているのだろうか。少なくとも、自分は伊吹の連絡先を知らない。向こうもそうだ。
 今日の呼び出しだって、父の末の弟で、伊吹の事をよく可愛がっていた瀬川彰経由で、だった。彰兄ちゃん、と自分も呼んでいる叔父には、自分も世話になった。父の事を親族の中では気にかけている方だというのも認める。彰が絡んでいるから、自分だってこの仲の悪い義弟と今こうして向き合っているのだ。

「親父からの伝言、言っておくよ。『お前には迷惑をかけない』ってさ」

 それを伝えた途端、伊吹の顔が歪んだ。喜べばいいのに、なんだろうかその顔は。

「会社、もうヤバいんだろ」
「だから、お前には迷惑をかけないって親父が言ってたよ」
「迷惑とか……。その、親父は大丈夫なのかよ」
「なんだよその漠然とした質問。どう答えろって言うんだよ」

 大丈夫じゃないといえば、大丈夫ではない。
 大丈夫といえば、大丈夫。

 父の現状は、こうとしか言えなかった。

 父は、長年続いてきた会社を自分の代で畳むことを決意した。だから、はっきり言って今はその事で手一杯で大変忙しそうだった。

 でも、それさえ終われば。

「言っておくけどさ、お前には言わないから、会社の事。彰兄ちゃんにも言っておいてくれよ。なんか彰兄ちゃん根掘り葉掘り聞こうとしてたけど、守秘義務とかあるんだよ。教えられねえよ部外者に」
「和樹は、知ってるのかよ、会社の事。会社で働いてないだろ」
「そりゃあな。俺は親父と同居してる息子だし」
「俺だって息子だよ」
「ずっと親父と縁を切ってたくせに、何が息子だよ」

 流石に、その発言はカチンとくる。
 対する伊吹は、目を見開いて、テーブルの上の拳が震えていた。

「そんな、俺は別に、縁切りなんて……!」
「はあ? 盆も正月も何年も本家に来なくて親父と顔も合わせなかったくせに何が縁切ってないだよ。お前あれだろ? お前の婆ちゃんが死んだ時に葬式で会った以来なんだろ、親父とは」
「それ、は」
「それで、会社がもう無くなるって彰兄ちゃんに聞いて、自分になにか降りかからないか心配になって今更連絡とってきたんだろ。分かってるよ、こっちだって」

 小賢しくて白々しい義弟に、自分は怒りすらわかなかった。親父に依存して搾取してきた親族達に比べたらマシだったから、そうならなかったのは、こいつの祖母のおかげなのかもな、とか思っていた。

「俺は、ただ親父の事が心配で……」
「親父の事は俺がどうにかするから、お前は何も気にする事はねえよ。相続に関しては、親父も色々考えてるよ。俺だって親父の決定に口を挟む気はねえし」
「和樹!」

 伊吹は、大声を出すといきなり立ち上がった。がたん、と、椅子が倒れる。

「俺だって親父の事を気にかけちゃ悪いのかよ!」
「だから、お前が気にする必要はないって言ってんだよこっちは」
「は、はあ!?」

 伊吹は、大袈裟に目を剥いた。

「い、いい加減にしろよ! 会社が倒産するって聞いて、心配になってこっちは連絡取ったのに!」
「だから、親父も俺も、お前と彰兄ちゃんには迷惑かけないって」
「なにが迷惑をかけないだよ! 俺だって話を聞く権利くらい、」
「ないよ。お前には、全くない」

 自分は、興奮している義弟を思い切り睨んでやった。

「さっきも言ったろ。守秘義務があるって。それと、お前が誰とどう繋がってるのかも分からないのに話をするわけがないだろ。お前、信頼できねえんだよ。だから、親父じゃ無くて俺が来たんだろ」

 伊吹は、自分の発言にたじろいだ様に一瞬怯んだが、また直ぐに自分を睨んできた。大人になった、と思う。こいつも自分もまだ幼い頃――自分がこいつをいじめていた時は、涙目で自分を見上げるだけだった。こんなに、こいつも我を張るようになったとは。

 でも、残念ながらこっちだって大人になった。守るべき物も増えた。父は、自分を頼ってくれている。なら、もうその信頼を裏切れない。

「どういう意味だよ、和樹」
「まず座れよ」

 自分の言葉に、伊吹は椅子を直して素直に座った。それを見て思う。もしかしたら、親族達に騙されているのかもしれない、と。
 もしそうなら、僅かばかり同情する。でも、それだけだった。今のこいつと同じ年、自分は子供が生まれたばかりだった。妻とはまた違う、守るものが増えた歳だった。それを思えば、同情はしたが、それと同じくらい、無知なこいつに愚かしさしか感じなかった。

「誰か、お前に色々と吹き込んだ奴がいるんだろ。誰だ? 光政おじさん? それとも、明子おばさん? 誰でもいいけどさ、もうあんたら、会社から逃げたんだから口出すなって言っておけよ」
「……和樹。本当にわからない。なんの話だよ」
「いやさ、お前は親族達に『自分たちは騙されて辞めさせられた』って言われたんだろ? だからこっちに接触してきたんだろ」

 伊吹は、じ、と自分を見つめてきた。なんだか、顔色が悪い。
 自分も伊吹の顔を伺うが、正直、何を考えているのかよく分からない。

「違う、俺はおじさん……彰おじさんに、会社が潰れるって言うのに、親父は何もおじさんに教えてくれないから、お前からも何か言ってくれって……。知らない内に、本家から親父いなくなってるしって……」
「……言っておいて。初めから彰兄ちゃんはうちの会社と距離を取っていたんだから、初めから口出す権利はないって。親父も、瀬川に迷惑かける真似はしねえよ」
「違う……! おじさんも俺も、親父が心配で! 力に、なりたくて! 会社の事とかさ!」

 伊吹のその言葉に、もう自分は呆れる、としか言えなかった。

「親父にこれ以上無理させんな」

 自分の言葉に、伊吹の顔が強張った。

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