急いで買った吊るしのスーツは、体が落ち着かなかった。
なんとか見つけた紳士服量販店で、今財布の中の手持ちだけで購入できるスーツを見つけて店で慌てて着替えた。着替える前まで来ていたTシャツにジーンズが入った紙袋を持って、自分は慌てて相手から指定されたホテルに急ぐ。
普段、自分はスーツなんて着ない。仕事では汚れてもいい作業着で機械油や汗の匂いと一緒に仕事をしているのだ。父やあんなホテルに呼び出してきたあいつとは違う。全く、「普段の格好でいい」なんていうあいつの言葉を信じるのではなかった。ホテルと言ってもビジネスホテルだろうから、仕事帰りの私服でも大丈夫か、なんて思うんじゃなかった。あいつは、自分を憎んでいるのだから、嫌がらせとかマウンティングで、自分に似合わない高級ホテルを指定するくらい、そりゃするだろうに。
「お一人でしょうか」
ホテルのレストランで待ち構えていたウェイターに話しかけられて、自分は首を振った。
「待ち合わせです。遅れてしまって申し訳ありません」
そう言って、この高級ホテルのレストランを指定してきた奴の名前を言うと、ウェイターは笑みを濃くして「お待ちしておりました、籤浜様」と言って一礼してきた。ウェイターの顔をじっとみる。どうやらハーフっぽい顔立ちで、面がもしかしたら父よりも整っていて、セットされた髪がよく似合う男だった。まだ若そうだ。あいつと同じくらいの年齢だろうか。
案内をするウェイターの後に続きながら、スマホで時計を見る。待ち合わせの時間から1時間ほど遅れてしまった。それもこれも、あいつが明らかにTシャツとジーンズなら絶対に入れなさそうな場所を待ち合わせ場所として指定してくるからいけないのだ。スーツ量販店を見つけてスーツを買って着替えて、なんてやっていたから、遅くなってしまった。遅刻の文句は確実に言われるだろうが、こちらだって嫌がらせの連絡不備への文句を言う権利くらいあるだろう。
あいつと顔を合わせたのは、もう6年ほど前だった。あいつが――腹違いの弟が大学を順当に卒業して社会人になる時。そういえば、あいつはその時に起こったすったもんだについて知っているのだろうか。
ま、知っていても今更どうでもいいことか、なんて思っているうちに、どうやら目的の部屋に着いたらしい。先導していたウェイターは個室の扉をノックすると、程なく、ほとんど忘れかけていた腹違いの弟の――籤浜伊吹の声が聞こえてきた。
「どうぞ」
その声に開かれた狭い個室。
でも、椅子とかテーブルとかの調度は高いんだろうな、と思わせてくる室内だった。
上座の方には、2人分の綺麗に並べられた食器類とナプキンが置かれた席がある。そして下座の方には、伊吹が座っていた。
「その」
口を開いた伊吹は、スーツを着ていた。やはり、自分に私服でいいと言ったのは嫌がらせだったのだ。ホテルの外観を見て、直ぐに紳士服量販店を探した自分の判断は間違いではなかった。財布の中は寂しくなったが。
ウェイターに促されるまま席に着く。ウェイターはニコニコと作った笑みを浮かべている。伊吹とアイコンタクトをしたウェイターは、軽く頷いた後に「お飲み物はいかがなさいますか」と自分に聞いてきた。
「……水で。バイクなので、アルコールはちょっと」
「かしこまりました」
ウェイターは、個室から出て行き、自分は伊吹と2人きりになる。私服を着てきた義兄を嘲笑おうとしていた義弟は、その目論見が外れたのがそんなにショックなのか、なんでか落ち着かないように見えた。
「親父、は」
伊吹はそう言った後その親父そっくりの黒い目を、遠慮した様子で自分に向けてくる。それに、ため息をついた。
「来ねえよ。行かなくていいって俺が言った」
「……なんで。親父がいなきゃ、話ができないだろ」
「はあ? お前、親父と何話すって言うんだよ。何もないだろ、お前が親父と話すことなんて」
自分のその発言に、伊吹の眉間のシワがよった。
「あるよ。あるから、呼び出したんだろ」
「ねえよ。お前が知りたいことなら俺の口からで十分だしな」
自分のその発言に、伊吹は思い切り自分を睨んできた。でも、母方似だろう、若く見える顔立ちのせいであまり怖さを感じなかった。
「会社の事、親父の口からじゃないと仕方がないだろ」
「……お前さぁ」
自分は、思い切りため息をついてやった。
「今うちの会社、大変なの分かんないのかよ。親父だって本当に忙しいんだよ。なのにいきなりこんなホテルに呼び出してさ話聞かせてくれって」
しかも、と自分からも義弟を睨んでやる。
「俺に恥かかせようとして。何が私服のままで大丈夫、だよ。おかげでスーツ急いで買う羽目になったんだからな」
「それは、その」
自分の発言に、伊吹は目を泳がせた。
「友達に相談したら、うちのホテル使えって、言ってくれて。ついでに食事もどうだって」
「何、人脈自慢かよ。彰兄ちゃんといい、今更人脈自慢してきてどうするつもりだ?」
「ち、違うって! 嫌がらせのつもりは、全くなくって! その、でも、確かに配慮が足りなかったよ、ごめん。俺は行き帰りはスーツだけど、和樹は違うのに」
伊吹はそうやって謝ってきたが、自分は不快になるだけだった。