ごっ、という鈍い音がして、兄の体が吹っ飛んだ。
兄の体は床にうずくまり、痛みに悶えている。その燃える瞳は、混乱と困惑と、そして、わずかに、しかし、確かに恐怖に揺れていた。
「立場を考えろ、千秋」
父の、固く低い声。
刹那は、呆然と父を見つめた。刹那に背中を向けていた母は、刹那の方をじっと見つめる。前に出るな、危ないから。そういう、母のメッセージなのだと、刹那は受け取った。
初めてだった。父が、千秋に、子供に暴力を振るうなんて。
「そんな関係のない人間を助けて何になる。合理性を考えろ」
合理性。
そうだ。さっきからずっと千秋が主張していることは、合理性はない。合理性なら、父の方がずっとあった。
「お前は会社を継ぐ身なのだから、そんな不合理な事をするな。お前の立場が危ない」
冷たい、けれども、正しい言葉。
千秋の立場のために、父は、伊吹を切り捨てろ、と千秋に言っている。千秋の瞳が、揺らいだ。千秋は、後継者だから、尚更周りの目が厳しい。
千秋がやるのは、危ない。でも、でも。
もしも、やるのが刹那なら?
「周りをちゃんと見ろ、千秋。伊吹くんばかり、見るんじゃない」
その周りは、刹那に決して優しくなかった。
家族は刹那に厳しかった。甘えを許さなかった。誰かの体温が恋しい年齢の時でも、そうそう甘えられなかった。
学校では、遠巻きにされた。
実家の会社の事、母に似た目立つ顔。みんなみんな、刹那を刹那として見てくれなかった。都合のいい、犀陵のお坊ちゃん。そういう目ばかりだった。
初めて、刹那自身を見てくれたのは、伊吹――あの優しい人だけだった。
「俺が」
声が出た。
でも、小さくて、力がなくて、家族全員、誰も刹那の声を聞いていない。
昔からの、いつも通り。だれも、刹那に期待してない。
ここで、口を閉ざせば楽になれる。
千秋から目を背けて、父から背中を向けて、母に守られたままで、ただあの千秋のマンションに帰って、伊吹を待つ。
それが、唯一出来損ないの刹那に出来ることのように思えた。そうしてしまおうか、なんて囁きが刹那の中から聞こえてきた。
でも。
震える足を、ぐ、と踏ん張る。
思い切り、父も千秋も母にも注目して貰うために、息を吸い込む。
大好きな、あの人の為に、ひとつ、勇気を握る。刹那自身の中にあった小さな勇気を握りしめて、ぐ、と逃げずに父を見つめる。
父は、刹那を全く見ていない。千秋ばかり見ている。
今更、それにむかついてきた。伊吹は、父親に屈しなかったというのに。
――刹那も、それをしないと伊吹に見合う人間になれない。
「千秋が、やるのが駄目なのか」
思いの外、自分の口から大きな声が出た。
我ながら、力強い声だった。
「なら、俺がやれば、文句はないな、父さん」
千秋は、驚いている。
母も、驚いていた。
そして、父は、どこか途方に暮れた様な顔をした後。
ぽきり。
そんな、父の小さな何かが折れる音を、刹那は確かに聞いたのだった。