今日も今日とて、親友の弟で、自分とは5歳下の可愛い弟分である、犀陵刹那は、伊吹に縋りながらいやいやと首を振って、大学に行くのを嫌がっていた。
前授業で一緒になったあいつが嫌だ、とか、英語の少人数クラスで伊吹がいないのが嫌だ、とか、ていうかあの女絶対伊吹狙ってた許せない、とか色々いいながら伊吹に縋り付いている。
その様子に、出勤前の親友は呆れ顔で「頼んだよ伊吹」と会社に出勤してしまった。なので、今この、親友が契約しているマンションの一室には、伊吹と刹那だけである。常にストイックで、弟のサボりを許さない親友の目はない。
伊吹は、椅子に座りながら、床に膝立ちになって伊吹の膝に縋りついている刹那の頭を、「よしよし」と撫でながら、リビングの壁にかけられたカレンダーを見る。
どこぞの、海の向こうの風光明媚な観光名所の写真の下の日付を見ながら考える。
刹那は、なんだかんだと言いながら、一度も大学の授業をサボっていない。
今日の講義は、出席票を取らない講義ばかりだ。その分、試験の出来で単位が取れるかどうかが決まるが、事前に授業資料は配布されているし、今日の講義内容くらいなら、教科書を見ながら、伊吹が教えてやれる。
親友の目はない。
たまには、この弟分にも、ご褒美が必要だ。
そういえば、刹那はあんまりラーメンを、食べた事ないって言っていた。
ていうか、ラーメンが、食べたい。
「……よし、刹那」
伊吹は、刹那の頬に両手を当てて、自分を見させながら言った。
「今日、サボっちゃうか」
お目付役あるまじき発言に、刹那の琥珀色の瞳が、パチパチと瞬いた。
可愛いな、と伊吹が笑うと、刹那は一気にその白い顔を赤くした。
厳密には、刹那はラーメンといえば、高級中華料理店で提供される、伊吹には想像もつかない様な高級食材が利用されたラーメンしか、知らないのだという。
例えば、伊勢海老が乗っかってたり、和牛が乗っかっていたり、日本のラーメンとは色々と違う、本場の味だったりと、そちらの方が伊吹には色々と分からない。なので、一般的なラーメン屋で提供されるラーメンは、刹那は食べたことがないのだという。
大学生にもなってそれとは……、とその場にいた親友を見たら、親友は「こいつ、本当にしょうがないだろ?」と言っていた。伊吹が言いたかったのはそうではなく、「千秋、刹那がそうなら、お前、もしかして中2の頃行った、あの野菜デカ盛りラーメンが初めての庶民ラーメンだったんじゃないか?」という事なのだが、プライドの高い親友のことを思って伊吹は何も言わなかった。
初めての庶民ラーメンデビューをあんな玄人向けラーメンにして申し訳ないな、と少し思ったが、でも中2の千秋は、伊吹と一緒になって夢中で野菜デカ盛りラーメンを食べていた。伊吹が「もう限界だ」と残した伊吹の分のラーメンも代わりに完食していた。親友があれだけ食べるとはあの時初めて知った。
でも、普段の食事は普通の量だから、2人揃って朝食を抜いてあのラーメンに挑んだからかもしれない。それに、教えてくれた、当時二十歳の叔父は完食無理だった、と言っていたので、千秋だって、今は完食できないかもしれないし。
そこまで考えて、野菜デカ盛りラーメンを刹那に見せてやりたい気もしたが、流石に初めての庶民ラーメンにあれは大変か、と考える。
とりあえず、サッパリ系だろうか、それともコッテリ系か。チェーン店じゃ初めての経験には味気ない。ラーメン店のレビューもチェックして、刹那の初めてをなるべくいい思い出にしてやらないと。
そんな事を考えながらスマホをいじっていると、隣に座る刹那が「伊吹」と声をかけてきた。そちらを向くと、電車に隣り合って座った刹那が、なんだか落ち着かない様子で伊吹を見つめていた。
「その、いいのか? サボって」
「たまにはな。お前、いつも頑張ってるからご褒美。千秋には内緒な?」
「……俺と伊吹の、秘密?」
「うん。秘密」
そうやって笑いながら言うと、また刹那は頬を染めた。
伊吹は、刹那が「秘密」が好きな事に、もう気がついていた。
千秋にも言ってなかった、伊吹自身の名前の由来について、とか、料理のつまみ食いとか、昔の千秋の話とか、伊吹と交わす様々な秘密をその都度、刹那はとても嬉しそうにする。
伊吹は、千秋曰く、刹那の初めての友達なのだと言う。
なら、初めての友人とする交わす秘密が、刹那にとってはどれこれもこれも新鮮で楽しいものなのかもしれない。もしそうなら、伊吹も嬉しい。もっと沢山のことを刹那に教えたくなってしまう。
「なあ刹那。お前、コッテリ系とあっさり系、どっちが好き?」
「……どちらも、よくわからない」
「そっか。じゃあ今さ、思いっきり食べたい気分? それとも、セーブしとくか?」
伊吹の問いに、刹那は首を傾げて考えた。
「千秋にも内緒なら、夕飯に響く様な食事はちょっと……」
「あー、そうだな。じゃあ、あっさり系にするか」
伊吹は、スマホでまた検索をした。有名店で、値段も手頃で、美味しい店、と探すと、伊吹もいいかな、と思える、ここから近い店がヒットした。ここなら、あと数駅電車に揺られて最寄駅に降りれば、そう迷わずに開店時間に間に合うだろう。
「ここにするか」
「伊吹に任せる」
「ん、任せとけ」
可愛い弟分に頼られて、伊吹も嬉しかった。
店に着くと、既に何人かの客が店の前に列を作っていた。伊吹と刹那も黙って最後尾に並ぶ。刹那は、列を作る客達を、興味深そうに眺めていた。
「伊吹、この店、予約できないのか」
そんなことを伊吹に聞いてくるから、一瞬伊吹もどう答えようか困ってしまった。
刹那は、外食といえば家族での外食しか経験がなかったらしい。そして、その家族の外食というと、高級ホテルのレストランとか、一等地にある高級レストランだという。そういう店は、まず予約してから行くだろうから、行列に並ぶ、なんて刹那からしたら初めての経験なのだろう。
「ラーメン屋はまず予約しないよ。混んでたら並ぶのが当たり前なんだ」
伊吹が、そっと刹那に囁くと、刹那は驚いた様にその瞳を見開いた。
「予約すれば、待たなくて済むのに?」
「うん。そういうもんなんだ」
「……なんか、不便だな」
刹那の率直な言い方に、伊吹は苦笑してしまった。
まあ、伊吹だって、父との月一の食事で高級レストランとかそういう場は知らないわけではない。ああいう店は、客をスマートに案内するのもサービスの一つだし、提供できる食材も限りがあるので、予約はしておいた方がいい。でも、ラーメン屋はスープが無くなれば、どんなに店の外で並んでいても客に断りを入れる事になる。それを伝えると、刹那がまた驚いた様に目を見開いた。
「サービス業舐めてるな」
「こら、刹那言い過ぎだぞ」
「……ごめん」
刹那は、口ではそう言ったが、唇を尖らせている。
「まあ、でもどこのラーメン屋もさ、閉店まではスープ持たせる様に頑張ってるらしいぞ?」
「どうやって予測するんだろうな」
「経験値、とか」
2人でそんな話をしながら列に並んでいると、店員が店の中から出てきた。そして、暖簾を入り口にかけると、どうぞ、と一番先頭に並んでいた客から、店に入らせて行った。
千秋と刹那も、店員に促されて店の中に入る。詰めてください、という掛け声に従い、2人は狭い店内のカウンターで知らない人間と隣り合って、席についたのだった。刹那は、なんだか居心地をわるそうにしている。それを見ると、今更、「千秋じゃないし、刹那をラーメン屋に連れてきたの、失敗だったかな」と思えてきてしまった。
「ご注文はお決まりですか」
お冷を出してきた店員の声に、刹那は伊吹に視線をやった。この視線は、「俺は全く分からないから、伊吹が決めて」の視線だろう。だから、伊吹がこの店のレビューでもたくさんおすすめされていた、醤油ラーメンを2杯頼んだ。
程なく提供された醤油ラーメンは、シンプルな具材が乗った、一見、誰もが想像する様な見た目のラーメンだった。
提供されたラーメンを見下ろした刹那は、伊吹に視線を向ける。伊吹は、苦笑しながら割り箸を二膳取り出して、一膳を刹那に渡した。
「……これは流石に俺もわかるぞ」
伊吹の心配そうな視線をよそに、刹那は割り箸を2本に割る。それを見届けた伊吹も割り箸を割って、ラーメンの中に箸を入れた。
麺を啜る。
伊吹は、その黒い目を見開いた。
このラーメン屋は、確かにレビューでも煮干しの風味が素晴らしい、と書いてあった。そのレビューに偽りなしで、麺を啜った途端、煮干しの風味が口いっぱいに広がった。細麺が、よくスープと絡んでいるのだ。麺を飲み込んだ後、早速レンゲで汁を飲む。
スープも、やはり大変美味しい。これは、スープまで完食ができるかもしれない。
刹那の方を見ると、刹那もまた、熱心にスープばかり飲んでいた。
「刹那。麺と食べると美味しいぞ」
「わ、分かってる! 伊吹」
そう言って、刹那は箸を使って、レンゲの中に小さいラーメンを作って食べる。まるで女性の様な食べ方ではあるが、美味しそうに食べている。
伊吹も、それを見て嬉しくなった。
初めての刹那の庶民ラーメンは、いい思い出になりそうだった。
ただいま、と玄関から聞こえたその声に、伊吹と刹那はあわててタッパーに蓋をして、それを冷蔵庫に入れた。
足音がする。そして扉から現れた千秋は、鼻をすんすんと動かして部屋の匂いを嗅いで、首を傾げた。
「……醤油の匂いがすごいね?」
「す、すまない千秋! 今窓開けるから!」
刹那は、キッチンの窓を開ける。最上階ではないが、そこそこの高さにあるその部屋のキッチンの小窓を開けると、外の道路を行き交う車の音が聞こえてきた。
「今日の夕飯何? 醤油の何か?」
「あー、その、これは明日だ。一晩漬け込んだらできる。今日は唐揚げだ」
「からあげ!」
千秋は、目を輝かせて「着替えてくるね」と自分の部屋にスーツを脱ぎに行った。それを見送って、刹那と伊吹は、顔を見合わせた。
「バレなかったな」
「からあげで、誤魔化されてくれたな」
伊吹と刹那は、また冷蔵庫を開けた。そして、中央に置かれた、タッパーを見る。
そこには、沢山の煮干しが浸かった、醤油タレがあった。
「これがあれば、うちでもあのラーメンの味が……」
「うーん、それはどうかは分からないな。一応、ネットのレシピ通りには作ったけど」
家に帰った後も、刹那はあの煮干し醤油ラーメンにいたく感銘を受けていた。そして、伊吹におねだりをした。「あの醤油ラーメン、家でも食べたい」、と。
そして、夕方に2人で買い物に行って、醤油ラーメンの材料を買い込んだ。実は、ついでに味玉とチャーシューも仕込んでいる。おかげで、冷蔵庫の3分の1が、明日の夕食のラーメンに関するもので埋まっていた。
「千秋には、俺が食べたくなったから作ったって事にしておくから。お前は何もいうなよ、刹那。サボったのがバレるから」
「うん。分かった。俺と伊吹の秘密な」
「うん、秘密」
そして、2人は冷蔵庫内の温度低下を知らせる音が鳴る前に、冷蔵庫を閉めた。さて、これから2人で、嘘を真にするための唐揚げ作りをしなくては。まあ、もう鶏肉に下味はつけているので、後は粉をつけて揚げるだけだが。
「刹那、油の用意頼む。俺はレタス刻むから」
「分かった、伊吹」
刹那は、素直に頷いて揚げ物用の鍋を用意する。その間、伊吹は付け合わせ用のレタスを包丁で刻む。
程なくすると、部屋着に着替えた千秋が戻ってきた。キッチンを覗いて、からあげがまだか、と楽しみにしている。早速、「俺の白米は多めに盛っといて」と注文を付けている。
それに、伊吹と刹那は2人して頷いて、夕飯の準備のラストスパートに取り掛かった。
冷蔵庫の中には、千秋はまだ知らない、伊吹と刹那の秘密が、静かに、眠っているのだった。