300万円が入った封筒をしっかりと握り俺に頷く甥っ子に、俺は安堵の息を漏らした。
我ながら、行き過ぎなのは分かっていた。
株式運用で自分で貯めたとはいえ、額が額だ。一サラリーマンとして、甥っ子が生まれた時からの長い付き合いといえど、300万円なんて軽く出せる額ではない。
銀行で金を下ろした時、窓口の銀行員は不審そうにしていた。使用用途も聞かれて、固定資産の手付金だと適当に嘘を言って下ろした300万円だった。このレストランに来るまで、そわそわと周囲を気にしながら、カバンに入れて持ってきた300万円なのに。
でも、鞄から300万円の封筒を出す俺の手は、不思議と躊躇いがなかった。
家を購入する際のローンのサインも、俺は一呼吸おいてからサインをしたというのに。300万円あれば、妻や娘の為に、いろんな事が出来るのに。俺は、甥っ子の為に300万円という大金を出そうとしている。
目の前の椅子に座る甥っ子は、少し震えた両手で、しっかりと封筒を握っている。それに、俺は安心した。受け取ってもらえなかったら、嫌だな、と思っていた。我ながら不思議だ。この素直な甥っ子が、俺の好意を無碍にした事はあっただろうか。
可愛い甥っ子だ。
若く見える顔立ちはもとより、俺と境遇が似ていて、素直で、真っ直ぐで、努力家で。
また、甥っ子の祖母にもたくさん世話になった。
母が死んでから味方なんて1人もいないと思って拗ねていた、10代の俺を、甥っ子の祖母は定期的に食事をご馳走してくれた。俺の実の祖母は2人とも、物心ついた頃にはもういなかったから、甥っ子の祖母を俺はまた、実の祖母のようにも思っていた。
俺が、今真っ当に、家族もいて仕事もして、大変だが概ね幸せな生活を送っているのは、俺も見守ってくれていた甥っ子の祖母のおかげだ。だから、300万円なんて惜しくはない。
自分と境遇の似ている可愛い甥っ子。
世話になった、甥っ子の祖母。
2人の事を、思えば――。
――2人、だけだろうか。
甥っ子と別れ、俺は会社に戻る。
その道の最中、俺は考える。
仕事はある程度片付けておいたから、今から戻っても大した残業時間にならずに今日は帰宅できるだろう。帰ったら、妻が作ってくれた料理を食べて、娘の幼稚園の話を聞いてやって。娘が寝た後は、妻と一緒にテレビを見ながら色々と話して。明日も頑張るか、と思いながら、就寝して。
そんな、ささやかな、平凡な、幸せな日々。
昔――母が亡くなった時、俺はこんな未来を夢見ることすらできなかった。
本家に引き取られて、いじめられて、自殺を考えるくらい辛くて。
でも、俺は生きていて。
腹違いの兄姉とすら言いたくない奴らに奪われた母の形見の指輪は、今も俺の手元にあって。
高校から、俺が一人暮らしをしていたアパートの金も出してくれた人は。
俺が結婚する時も式に出てくれて、娘が生まれた時も、おめでとう、と言ってくれた人は。
『いいんだ、彰』
低い声が耳の奥で聞こえる。
『お前が気にする事じゃない』
あの人は。
伊吹の父親で、俺が唯一、兄、と呼ぶ人は。
そうやって、母の指輪を取り返してくれた時も、俺の為にアパートを用意してくれた時も、深夜にラーメンを食べさせてくれた時も、遠慮をする俺に、そんな風に言ってくれた。
そんな風に、今。
会社は大丈夫か、何か力になろうか、無理しないでくれ、力になるよ、と言った俺に。
昔と同じ言い方で、あの人は俺から背を背けた。
俺に、助けを求めようとしなかった。
もう俺は30歳も超えているのに。働いているのに。会計の知識もあるし、きっと助けになるような人脈もあるのに。昔、あの人は俺をたくさん助けてくれたのに。でも、手を出させてもくれなかった。
だから、伊吹が300万円を受け取ってくれた時、俺は安心した。
兄さんみたいに拒絶されたら嫌だったから。
兄さんの息子が、受け入れてくれて、安心した。
「……俺は、何を」
気がつくと、会社のビルの目の前に俺はいた。
横断歩道の信号は赤だ。青になって、横断歩道を渡れば、もう会社の入り口の目の前だ。
はあ、とため息をつく。
落ち着け、俺。
兄さんは伊吹に酷い事をした。伊吹の腹違いの兄からのいじめを庇わなかった。伊吹が社会人になってから、伊吹を無視していたくせに、跡取りがいなくなった途端、伊吹に執着した。伊吹はそのせいで、何年も逃げ回って、今日会った時も、伊吹はあんなに痩せて。会社だって、粉飾なんて不法行為をして、その額も多額だと。
全部、兄さんのせいだ。
これから、兄さんは大変な道を歩む。でも、それは兄さんの報いだ。伊吹が気にする必要はない。だって、兄さんは伊吹に酷い事をしたのだから。
まあ、でも、俺は。
兄さんが、もし俺に助けを求めるのなら。
少しくらい、俺だって助けられる。
待とう。
きっと、その内、俺に連絡が来る。助けてくれって俺に言ってくる。だから、それまで待てばいい。
いくら頑固なあの人も、もう二進も三進も進めないと分かれば、きっと俺を頼ってくる。ようやく、俺を一人前の男と認めてくれる。兄さんに守られていた頃の俺とは違うんだって見直してくれる。
それを、待とう。
兄さんが素直になるのを、俺は待とう。
瀬川彰は、そうして青になった横断歩道を歩く。
ポケットの中の彼のスマホを握りしめて、彼は歩く。
ポケットの中のスマホはただ、ずっと静かなままだった。