静かになった
ニャンコろう
静かになった
父の葬儀はひっそりと執り行われた。
まだ悲しさが癒えていない胸の内と食い違うような穏やかな晴天に拍子抜けしてしまった。きっと父も、この雲一つない青空のように清々しい気持ちで生涯を終えたことだろう。
焼香の列に並びながら、何度も父の遺影を見た。写真を撮られるのが苦手だった父は逃げ場を失って諦めたのか、黒い額縁で笑っているとも怒っているとも言えない微妙な表情をしている。
この父を撮影したのは20年も前になる。いたずらと称して突然書斎に入り、抵抗できない父をフレームに収めたのだ。この一件以降、父は写真に収められるのを拒んだ。
「…いつの頃からか、突然静かになったわよね」
私の後ろに並んでいた近所に住む女性が、他の参列者とひそひそと話している。私は聞こえないふりをした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
葬儀が終わって実家に戻る。上り
私が使っていた部屋は物置同然となっていた。ただ、本棚に収納していた昔のアルバムは当時のまま残っている。何気なく手にとってページをめくってみる。幼い私を宝のように抱いている父、小学生の頃の私を運動会でぎこちない応援する父。中学生の私の誕生日をささやかながら祝ってくれた父。どれも見覚えがある“父”なのに、どこか他人のように感じた。写真の中の若い父は豊かな表情を見せていたからだ。
場所を変えて久しぶりに父の書斎に入る。書斎の中は、出入口の扉と対面するようにデスクが設置されていて、窓はなく圧迫感のある社長室のような造りになっている。
ここに入るのは私が高校生だった時以来だ。
父はとても几帳面な人だった。物の配置も、書類の分類も、いつも一定の規則に従っていた。その規則を、私は最後まで理解できなかったが、その性格のおかげで、書斎は今でも整然としている。そうだ、理解できなかったことがもう一つある。それは『爪を噛む』こと。他人の影響で自分の行動が崩されると、怒りに満ちた表情で相手を睨み、決まって右手の中指の爪を噛むのだ。20年前にいたずらで写真を撮った時も、私を睨みながら爪を噛んでいた父を今でも覚えている。
「……こんな人だったっけ…。」
声に出してみるが、書斎の静けさに沈みこんだ。
父のデスクにつくと、右側には4段の引き出しが備えられた片袖机だと今になってわかる。その引き出しをいたずらに開けてみたくなった。人の引き出しを開けるという行為は、秘密を知る第一歩のように感じて、緊張で手が震えてくる。
4段ある引き出しを下から上へ順に開けていく。特にこだわりはないのだが、高まっていく期待感が行動に乗り移ったのかもしれない。しかし4.3.2段のどれも空だった。期待が裏切られて残念なようにも安心したようにも思える。
開けた引き出しを全て閉め、残るは1段目。意を決して開ける。するとそこには、定型封筒が1通だけ…。
封筒を見た瞬間から、驚きと共に徐々に心臓を鼓動が早くなっていく。私の行動を先回りされているように感じた。広めの引き出しに不自然に置かれた1通が余計に不穏な空気を際立たせている。
封筒を手に取るかどうかを天秤にかけ、取ることを選択する。なんとか気を保って恐る恐る封筒に手を伸ばす。手にとってみると、表に宛名が書かれていなければ、裏に差出人の記載もない。電気に透かしてみるが、きちんと中身が見えないタイプの封筒を使用していることに父の几帳面さが出ている。封がされていて、その厚みから中には便箋らしきものが入っていることが推測できた。
その時、背後に悪寒が走った。誰かいるような気配…肩にのしかかってくるようなずっしりとした重み。それでも、私は中身を確認しようと封筒に手を伸ばしていた…。
もう少し、もう少しで、知ることができる…。
「お父さん!」
突然書斎のドアが開き、はっと我にかえった。慌てて封筒を元の位置に戻し、引き出しを閉める。
「ここにいたの?お母さんが呼んでるよ。」
「あぁ…。すまない。一緒に行こう。」
探しに来た息子の前で必死に平静を装う。
居間に戻りながら考えを巡らせる。私は何を見ようとしていたのだろう。早く見たい。中身を確かめたい。父の秘密だろうか…。秘密?父は私に隠し事をしていたのか?私でさえ知らなかったというのか?
「ねぇ…お父さんどうしたの?そんな恐い顔して…。」
息子が放った一言に、殴られたような衝撃が脳に直接届く。私は今まで一度もこのようなことを言われたことはなかったのだ。
私は書斎で息子に何をされた…?まさか…私の邪魔をしてきたのか…?
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
翌日の朝、私はゴミを集積所に持っていくために外に出た。実家の前にある道路は記憶よりも少しだけ狭く感じた。幼少の頃に過ごした公園が、大人になって小さく見えるように、それだけ私も成長したのだろうと都合よく解釈する。
「おはようございます。」
声をかけてきたのは、昨日の父の葬儀で『突然静かになった』と話していた女性だ。私の家からはす向かいの2軒隣りの家に住んでいて、玄関前を箒で掃除している。
「大変だったわね。」
「……お気遣いいただき、ありがとうございます。」
形式的なやり取りのあと、彼女は一呼吸おいて続けた。
「昔はもっと、よく笑ってよく喋る人だったわよね。」
私は手に持っていたゴミ袋を持ち替えながら曖昧に頷いた。
「あなたが小さい頃はねぇ、毎朝、道で誰かと話していたのよ。」
「…そうでしたっけ。」
残念ながら彼女は言う『父がおしゃべりだった時期』の記憶に自信がなく、当たり障りのない返事にとどまる。私の中では、それほどに亡くなるまでの父の方が印象的だったのだろう。
「でも、いつの頃か人が変わったように急に静かになったのよ…。私とも会釈するくらいになっちゃってね…。」
一番重要な情報がわからずに苛立ちがつのる。だが父にとって重大な転換期が訪れたことは確かなようだ。
「あなたも家を出るまでは私のおしゃべりに付き合ってくれたじゃない。もう覚えてないかしら。」
「はぁ…。学生時代の頃はあまり覚えてなくて…。すいません。」
重い鉛が落とし込まれたような圧迫感に襲われる。私がこの女性と親しく話していた瞬間があったと言うのか?
平静を装いながら会話を終え、女性は会釈をして自宅に戻って行った。私の胸の中になんとも言い難い後味の悪さだけが残った。
やっとのことで集積所に着く。すると今度は、父と年齢が近い、別の近所の男性を鉢合わせてしまった。次から次へと煩わされる。
「お父さん、亡くなったって聞いたよ。」
「はい…。」
彼は少し悲しそうな表情をした後、妙なことを口にした。
「でも、最近は元気そうに見えてたからさ。前みたいにちゃんと挨拶もしてくれたんだ。」
私はゴミを捨てた後、またも曖昧にうなずいて、問いかける。
「『前みたいに』…ですか?」
「うん、前はお父さんから話しかけてくれてることもあったんだけど、いつ頃からか急に喋らなくなってね。それ以降笑った顔は見なくなった。それでつい最近、珍しく挨拶してくれたと思ったら…。残念なことに…。」
またか。また不明確な情報で私を困らせるのか。さっきから出てくる『いつ頃から』とは結局いつなのだ。
「父の生前は大変お世話になりました。」
これ以上の情報は出てこないだろうと思い、形式的に挨拶を終わらせて足早に実家に戻る。
実家に戻ると、私は玄関の濃いすりガラスの引き戸に手をかけたまま止まる。
先刻出会った2人の言葉が身体に浸透していく。
————「いつの頃か人が変わったように急に静かになったのよ…。」
————「いつ頃からか急に喋らなくなってね。」
どうした?私の記憶の中の父は、最初から静かな人だったじゃないか。周りは一体誰のこと話をしているのだ?
私が今まで一体何を見てきたのだ?
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居間に入ると電気が付けられていた。その電気をためらいもせずに消す。するとそれを見た妻が私を咎めるように言った。
「ちょっと、薄暗いんだから電気をつけてちょうど良いのよ。」
「十分明るいだろ。昼間の時間帯に電気は相応しくない。」
「…急にどうしたの?今までそんなこと言ったことないじゃない…。」
驚いた表情をしてボソッと呟いた妻は、私から目を逸らして悲しそうな表情をした。
父の几帳面な性格は、周りにも影響を及ぼしていた。使わない電気や開けっ放しの扉が目に入ると、その状況に至った理由も聞かずに自分本位で片付けてしまうのだ。誰かにとっては必要なものだったとしても、父にとって必要のないものならば、父は自分の意見を押し通してしまう人だった。
そんな父を私は好きではなかったのに、なぜだろう、今では私に意見してきた妻を疎ましく思う。
突然、昨日父の書斎で見た封筒が脳裏に浮かぶ。引き出しの中は使われた形跡さえわからないほど綺麗なのに、不自然に置かれていた封筒。あれでは見つけて欲しいと言っているようなものではないか。あの几帳面な父がわざわざ残したのだ。中には必ず父の秘密がある。
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父の書斎は昼間なのにひんやりとした空気が漂っていて、やけに気味が悪かった。窓が設置されていない構造から、外界を拒絶したいという意思を感じる。そのおかげで防音室のようになってしまったこの場所では耳鳴りがやかましく響く。
当然のように父のデスクにつき、慣れた手つきで右側の一番上の引き出しに手をかける。昨日の夜に慌ててしまい込んだままの封筒がそこにあった。
私は既に、この封筒が自分で隠した宝物のように思えていた。ずっと頭の中を支配していた父の秘密にやっと辿り着くことができたのだ。
私はハサミに手を伸ばす。封筒の中身までハサミで切ってしまわないように、とんとんと封筒をデスクに当ててバランスを整える。そしてハサミで封筒の端部だけを丁寧にゆっくりと切る。上手く切れた。その証拠に切れ端が一定の幅を保っている。
中には横書きの便箋が1枚だけ入っていた。とても短い手紙だ。見覚えのある父の筆跡で書かれている。
読んでみると不自然な構成の手紙に恐怖を感じた。その影響もあって、手紙の内容が頭に入りきらない。辛うじて入ってきた内容でさえ理解するのには時間がいる。
———欺瞞に満ちた人生だと思うかもしれないが、この家では仕方ないことだ。
———はっきり言って世の中の人間は役割というものを勘違いしている。
———おいそれと受け入れられないのもわかる。だがこれが真の役割だ。
———誰かが父でいる限り、私がいなくなってもこの家は保たれる。
急に書斎の出入口の扉が勢いよく開く。その瞬間、眩い光に襲われたが、突然のことで何が起こったのかがわからない。
「お父さん、脅かしてごめんね。カメラを見つけたから、いたずらで写真を撮ってみたんだ。」
眩い光の正体はカメラのフラッシュだったのか。昨日に引き続いてタイミング悪く邪魔をしてきた息子に辟易する。手紙の解読をしている途中に邪魔されて最悪な気分だ。
「ご、ごめんね、お父さん。そんなに怒るとは思わなくて…爪噛むのやめなよ…。」
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夕方、近所のスーパーで買った酒のつまみの缶詰が、買物袋の中でぶつかってカンカンと軽い音を立てている。この缶詰は父の好物だったと気づいたのはレジを出てからだ。
「……あ、あの…。」
声をかけられて振り向くと、山岳をしていそうな装いにリュックを背負った男性が立っていた。この男性の顔だけは知っている。父より少し年上だったはずだ。
「すごく久しぶりじゃないか…。覚えてるか?」
この男性とは直接話したことはなかったので『久しぶり』という言葉が相応しいのか判断できずに戸惑う。
「いえ、あの…。」
「身体はもう大丈夫なのか?」
私は言葉に詰まった。体調を崩していたのは父の方で、入院して二度と家に戻ることはなかったのだ。
そう訂正する前に男性は続ける。
「風の噂で入院したって聞いた時はびっくりしたよ。お互い若くないんだからさ、無理はしないように気をつけよう。」
「あ、あの…それは…私ではなくて…。」
男性は私の顔をまじまじと見つめた後、酷く驚いた表情をした。
「君は…まさか…息子さんか…?」
「はい…。父は既に亡くなりました。」
私が男性にそう伝えると、更に目を見開いて固まった後『そうか…』と力なく答え、そのまま去っていった。
男性は明らかに父と会話していた様子だった。私が父に似ているというのか…?たとえそうだとしても、普通であれば父として会話を続けることはしないだろう。
突然、父の書斎で見た手紙の内容が想起される。『真の役割』…その言葉が私は身体の中でこだましていた。
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実家に戻ると酒を楽しむにはちょうど良い時間になっていた。そんな時に私の帰りを待っていたかのように電話が鳴る。それも携帯電話ではない。今では珍しくなった一般家庭向けの固定電話の方だ。
私の家では、廊下に設置した腰の高さほどの電話台に置いているので、上り
「はい。もしもし…。」
「……あぁ、良かった。やっと出た。」
年配男性の声を聞いてすぐにわかった。これは私宛の電話ではない。父宛の電話であると。私を煩わせないで欲しい。今から酒を飲もうとしていたんだ。また形式的な会話をせねばならんではないか。
「父は亡くなりました。」
さっさと済ませようとして結論だけを伝える。短い沈黙の後に、男性が口を開いた。
「そうか…じゃあ次は君なんだな。」
虚を突かれた返答に私が何も答えられないまま、ガチャリと音がなって通話が終了した。受話器を置いた後、私は呆然としてしばらく動けなかった。ただ、身体の中は焦りと恐怖に襲われて、冷や汗が止まらなかった。
「ねぇ、あなた。どうしたの?様子が変じゃない。」
居間の方から妻に呼びかけられ、はっとする。そうだ、私はこれから酒を飲むんだ。
「何でもない。それより酒を用意してくれ。楽しみにしてたんだ。」
「えっ?何言ってるの?お酒なんてないわよ。」
妻の、この返答に私は苛立った。
「ないだと!?どうしてないんだ!?」
「どうしてって…あなたお酒は飲まないじゃない。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
づかづかと書斎に入り、午後に座った椅子に再度腰掛け、右側の引き出しを開ける。昼間にたじろいだ息子の表情も、さっきの妻の怯えた表情もしっかりと脳裏に焼き付いている。
なぜだ!?これが普段の私だろう!自分の役割を全うしているのは私の方だぞ!
父が座っていたこの椅子に座り、書斎の全体と視界に収めると段々と落ち着いてきた。これが今まで父の見てきた景色なのだな。
戦慄する…。私は今まで何をしていた?『今まで』とはいつからの今までのことだ?
助けを求めるように右側の引き出しを開け手紙を読み返す。するとどうだろう昼間には到底理解できなかった手紙の内容が、今度はスラスラと頭の中に入り込んでくる。
『つい先日、離れているお前のことを久しぶりに思い出した。
欺瞞に満ちた人生だと思うかもしれないが、この家では仕方ないことだ。
はっきり言って世の中の人間は役割というものを勘違いしている。
おいそれと受け入れられないのもわかる。だがこれが真の役割だ。
間違いは正さねばならない。名前は人物の役割にはならず飾りでしかない。
選んできた道が正しいか否か、迷うこともなくなる。そして役割は空白を嫌う。
誰かが父でいる限り、私がいなくなってもこの家は保たれる。』
他人が読んでもさっぱりだろう。だが今の私にはわかる。いや、わかってしまう。この手紙は私に宛てたものだ。
———そうか…じゃあ次は君なんだな。
あの電話の相手は誰だったのだろう。ぼんやりと考えているうちに私の意識はぷつりと途絶えた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
父の葬儀はひっそりと執り行われた。
まだ悲しさが癒えていない胸の内と食い違うような穏やかな晴天に拍子抜けしてしまった。きっと父も、この雲一つない青空のように清々しい気持ちで生涯を終えたことだろう。
焼香の列に並びながら、何度も父の遺影を見た。写真を撮られるのが苦手だった父は逃げ場を失って諦めたのか、黒い額縁で笑っているとも怒っているとも言えない微妙な表情をしている。
この父を撮影したのは20年も前になる。いたずらと称して突然書斎に入り、抵抗できない父をフレームに収めたのだ。この一件以降、父は写真に収められるのを拒んだ。
「…いつの頃からか、突然静かになりましたよね。」
私の後ろに並んでいた近所に住む初老の男性が、他の参列者とひそひそと話している。私は聞こえないふりをした。
静かになった ニャンコろう @nynkorow
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