夕焼けとシャボン玉

真花

夕焼けとシャボン玉

 薄い眠りから潮が引いて砂浜が表に出るように醒めた。体にはセックスの後の快楽の残響と気怠さが二重奏で沁みていて、触れる薄がけは心地よく滑らかで、隣には誰もいなかった。でも、確かに誰かがそこにいたスペースがある。部屋の明かりはついておらず、窓から射し込む夕陽のオレンジが壁を染めて、それ以外のところが濃い影になっていた。開け放たれているだろう窓から夏の夕暮れに特有の、ゆん、とした気配が流れ込んで、僕の鼻を侵す。

「ミハシさん?」

 僕は公園に取り残された子供のような声を上げた。声はカンカンと部屋の中を何度も跳ね返って窓の方に向かって行った。

「ここよ」

 僕は起き上がってベッド座る。声の方を見ると窓枠にミハシが腰掛けて外に向かってシャボン玉を吹いていた。オレンジに照らされた外側のミハシと、影になった内側のミハシがまるで別物のようで、だけど間違いなく一つの人間で、僕に向けられた目は片方がオレンジで片方が影で、両方ともが黒く光っていた。それは妖しくと言うよりも静かな湖のような光で、僕のことを呼んでいた。僕は裸だったし、ミハシも服を着ていなかった。でもそれが自然なことに思えた。僕はミハシの前の、窓枠のもう片側に近い場所に座った。僕の顔もオレンジになって、外を見るとベランダ越しに低い位置に住宅街が広がっていた。ここは確か七階だった。ミハシがシャボン玉を吹くと、玉が風に乗って渦を巻きながら広がって行く。遠くからオレンジを届け続ける太陽に向かって玉の一部が飛翔する。それが太陽に至るより早く割れて消えるのかは分からない。すぐに目で追える範囲からいなくなってしまう。

「やる?」

 ミハシに渡されて僕もシャボン玉を飛ばす。ミハシの吹いた玉と同じ軌道に乗って、見えなくなる。いくつかだけが僕の周りをうろうろして弾けた。三回吹いて、シャボン液をミハシに返した。ミハシは受け取って、吹く。

「シノミヤ君」

 ミハシに呼ばれて、「はい」と職場のときのように返事をする。自分でそれが滑稽で、誤魔化すみたいに笑った。

「今日のことは忘れるの。いい?」

 ミハシに届けるものがあって直帰でいいと言われて会社を出て、このマンションに来て、出迎えたミハシに唇を奪われてから滑り落ちるようにセックスをした。僕達の汗は交じって、これまで知らなかった快感をいくつも教えられた。

「どうしてですか」

「明日からはまた会社で普通の顔をして話すの。私達は繰り返さないの」

「僕はミハシさんと繰り返したい」

「ダメよ。私はあなたがおしめをしている頃から大人をやっているのよ? もういいおばちゃん。私達には発展性はないわ」

 それは、確かにそうだ。でも年齢の差がどうかなんて関係はないんじゃないか。僕はまだミハシを抱きたい。……それは僕の欲望だ。欲望でしかない。発展性、つまり二人で生きて行くと言うことは全く考えていなかった。いや、考える隙間なんてなかった。僕はミハシに襲われて、興奮して、セックスをした、ただそれだけのちょっと先が今だ。未来を見れば、そこに何もないことはすぐに分かる。自分が酷く身勝手なことをしようとしていたと気付いて、顔が赤くなるのを感じた。でも、オレンジと闇に覆われているから見分けはつかないはずだ。ミハシは話が終わったと宣言するみたいにシャボン玉を吹く。風が変わって幾つもの玉が僕に当たった。ミハシが、あはは、と女子高生みたいに笑う。

「分かりました。でも、もう二度とないんですか?」

 将来のこととは関係なく、セックスをする選択だってあるはずだ。

「一度は事故と言えるけど、二度目は事件だから」

「じゃあ今から事件をしましょう」

「ダメよ。私達は事故をした。それだけ。ね?」

 僕がむすっと拗ねる子供のような顔をすると、ミハシが僕の頭を撫でた。本当の子供にするようにやさしく、全く性的なニュアンスのない撫で方だった。撫でられて、ミハシが事件を起こすつもりが全然ないことがミハシの手のひらから浸透するように理解されて、息が漏れた。

「分かりました。忘れます」

「よかった」

 ミハシがまたシャボン玉を飛ばす。今度は空に向かって玉は舞い上がって行った。それが太陽まで届くかは分からない。


(了)

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