人骨の玉座に黙する魔王

二晩占二

人骨の玉座に黙する魔王

 黒い扉には禍々しい紋様が刻まれている。その示す意味も、まるで生き物のようにうねり続けている仕組みもわからない。アベルが知っているのは、これが噂に聞く魔王の間へと続く最後の扉だということだけだ。


「待って、アベル!」


 扉へと伸ばしたアベルの手を、マチルダの切迫した声が制した。


「いまは無茶よ。パーティも半壊しちゃったし、あなたも傷だらけじゃ――」


 アベルの動きが、一瞬止まる。伸ばされた手の先、指が1本、欠けている。腕には無数の刀傷と、火傷の跡。

 聖剣ベイオルグに認められた勇者をもってしても、魔王城への道程は厳しく、険しいものであったことを物語っている。


 ――勇者。

 そう、アベルは、勇者だ。ただし、「最初の」ではない。人類が魔族に蹂躙され、略奪を受け、恐怖を強いられることになって、すでに1世紀が過ぎようとしていた。アベルは、第176代目の勇者だ。


 彼の脳裏には、亡き父の背中がよぎっている。同じく、第32代目の勇者だった父が、魔王討伐の旅路に出たあの日の背中が。

 ――俺がやらなきゃ、誰がやる。アベルは歯を食いしばる。父の、先代たちの、そして人類の雪辱を。その元凶が今、扉の向こうにいるのだ。

 アベルの手が、邪悪な紋様に触れる。


「アベル……!」


 マチルダの呼びかけを、無言で振り払う。

 扉に触れた手に、力を加えた。絡まるように蠢く紋様の熱を感じながら、扉が開く。


 ――ご、ご、ご、ご。


 一歩足を踏み入れた瞬間、薄闇に包みこまれる。マチルダの悲痛な叫びが背後で響いたが、もう振り返ることはできなかった。床、壁、天井。黒ずんだ瘴気がすべてを包み込み、境界を曖昧にしている。まるで毒の沼にダイブしたみたいだ、とアベルは息苦しさを深呼吸でごまかした。瘴気が紫黒い靄のように渦を巻きながら、彼の周囲を彷徨しつづけている。


 瘴気のカーテンの最奥。邪悪な霞の集結地。巨大な玉座が、鎮座していた。

 不気味な形状。滑らかでいて、角ばっていて、尖っていて、丸みを帯びている。


 ――骨だ。


 あれは、人の骨だ。その玉座は、百年以上にわたって虐げられ、虐殺されてきた人類の骨で組まれている。怨嗟と、呪詛と、悲鳴で接合されている。

 そしてその上に鎮座する、巨躯の獣人こそが。


「……っ、魔王……!」


 恨みの呼名が、瘴気に呑み込まれながら、薄く響く。と同時に、アベルの意識が揺らいだ。全身の力が抜け、足元に崩れ落ちそうになる。慌てて腰の聖剣を抜き払い、精霊の力を身体に宿す。間一髪で繋いだ意識で両足を踏ん張る。しっかりしろ。意識を保て。強く保て。

 アベルは自分に言い聞かせながら、奥歯を噛みしめる。


 魔王は、ただ静かに、こちらを向いていた。薄闇と瘴気で、表情が伺えない。

 不穏な空気。不穏な圧迫感。不穏なオーラ。

 何を言うでもなく、何をするでもなく、魔王はただ静かに佇んでいる。存在そのものが、この場のすべてを支配しているかのように、一瞬アベルは錯覚した。


 重く、冷たい、沈黙だった。


 挑発されているのだろうか。見くびられているのだろうか。

 聖剣を握る手が、汗を帯びる。不動のまま自分を見据える魔王の真意を、アベルは測りかねていた。


「アベル」


 ふと、膜のようにつきまとう瘴気越しに、マチルダの声。かすかに震えて聞こえたその声に振り向くと、いつの間にか彼女はアベルのすぐ背後にいた。手で口鼻を覆っている。精霊の加護を受けていない彼女は、瘴気の影響を真正面から喰らっていた。


「マチルダ。今、精霊の加護を――」

「いい。すぐ帰るんだから。わたしも、アベルも」

「マチルダ、それは」

「帰るのよ、勇者アベル。こんなボロボロのわたしたち二人で、あの不穏なオーラに、どうやって立ち向かうっていうの」


 瘴気に弱らされた、しかし芯のある、凛と澄んだ声だった。汗ばんだ額の下から、ふたつの青いまなこがアベルを睨めつける。


「――か、帰れない。ここまで来て、やつの姿を見て――引き返せるはずないじゃ」

「ドーガは」


 アベルの焦燥感を貫く、今は亡き仲間の名前。アベルの表情が硬直する。


「ドーガは死んだわ。あなたの命を守って」


 ドーガは、北方の先住民族たちの守る土地で出会った戦士だった。

 トロルの血が交じると噂される民族らしく、逞しい巨躯と剛腕で、しかし心優しい頼れる男だった。パーティを守る盾であり、先陣を切る剣だった。


 そのドーガは、魔王城周囲に張り巡らされた不死属性モンスターたちの大量発生罠ヴァンピートを突破すべく、身を挺してパーティを護った。倒しても倒しても蘇生し、襲いかかってくる骸骨や屍人形を払い除けた。パーティが城門へたどり着くと彼は踵を返してその巨体で通路を塞ぎ、後続を阻止したのだった。そして、無事全員が城門をくぐるのを見届けるとその場に崩れ落ち、大量発生罠ヴァンピートに呑みこまれていった。


「だから、こそ」アベルは聖剣を握りしめる。「だからこそ、俺は退けない。ドーガの死を、無駄にはできない」

「城内にあったヴァンピート発生装置は封印したわ。あなたの精霊にも力を借りて。次に来るとき、あの恐ろしい死霊の群れは発生しない」


 アベルは当惑する。マチルダの言いたいことはわかる。自分も彼女も、満身創痍だ。今決戦を迎えたところで、175人の先代たちと同じ運命をたどることは、目に見えている。


 だが、だからといって。


 玉座に視線を据える。魔王は依然、人骨の玉座の上でに黙している。瘴気が渦を巻き、薄闇を蠢き続けている。

 いつあの腕が持ち上げられ、あの不気味な闇がこちらへ差し向けられるのか。

 聖剣を握り直す。精霊の波動がアベルの身体に染み込む。


「それに」


 マチルダもまた、アベルトは別の焦燥感に駆られているようだった。聖剣に選ばれた、というただそれだけの理由で、魔王討伐の生贄に選ばれた幼馴染の命を助けよう、と。


「それに、アベル。忘れないで。わたしたちはメリッサが残してくれた情報も、持ち帰らないといけない」


 メリッサ。

 西の魔女の末裔である彼女もまた、マチルダやドーガと共に魔王討伐の旅を歩んできた勇者パーティの仲間だった――つい、先程までは。


 魔王城二階で行く手を阻む、死霊の王。ウィスパーキングとの死闘の末に、その人生の幕を閉じたのだった。

 太刀筋も、炎も、氷も、精霊も。どんな攻撃も透過してしまう不死身の肉体に、パーティは大苦戦を強いられた。アベルやマチルダの負っている痛々しい傷の大半は、ウィスパーキングによって刻まれたものだった。全滅しても不思議ではない事態を打開したのは――メリッサの唱え放った禁呪だった。異空間の歪みへと対象を誘いこむ、空間転移魔法。世界のことわりを裏切る起死回生の一手に要された代償は、使い手の命だった。


 骨の王を包みこんだ歪みが閉じられる間際、メリッサが宙に描いた魔法文字の手紙。そこには、世界の上空を覆い続けている闇の雲を解き放つ手法が記されていた。


「やっぱアタシって大天才。死ぬ間際まで新魔法おもいついちゃうんだから、ね?」


 満面の笑みで、いつもの軽口を叩きながら、彼女は静かに息を引き取った。


「メリッサの手紙を届けないと」マチルダの凛とした声。「世界の闇を払わないと。それから、やつとの決着をつけるの」


 ――ガァンッ!


 アベル聖剣を床に叩きつけた。名も知らぬ黒い石材が砕け、彼の頬を裂く。


「諦めろって、言うのか……」


 アベルの声が、虚空に溶けていく。


「ここまで来て。目の前にあいつがいるのに。魔王がいるのに。くそったれの大悪魔がいるのに。人類の天敵が、手の届くところにいるのに……!」


 駄々をこねるような言葉が、次々と喉からこぼれ落ちていく。マチルダの言うとおりなのだ。ここに残って殺され、椅子の一部となるか。街へ戻って呪われた闇を払うか。どちらがより人類にとって有益な一歩となるかは、目に見えて明らかなのだ。


「でも、でも――っ!」

「アベル」振り返るアベルを、マチルダは見つめ返していなかった。「見て」驚愕に開かれた、彼女の目。指差す先は、忌まわしい骨の玉座。


 変わらぬ瘴気の淀みの中で、魔王の口元が、静かに動いていた。

 口角が裂け、細長い半月を描いている。


 笑っている。


 面白い見世物でも、見物しているかのように。

 一瞬。ほんの一瞬、動揺した自分を、アベルは許せなかった。

 それは、勢いばかりで本当は最初から魔王と渡り合える力など残っていないことを、見透かされたかのようで。


 悔しさに、聖剣ベイオルグを握りしめる。

 負けない。

 アベルは、覚悟を決めた。

 この仇敵に、人類は負けてはいけない。


「……せいぜい、笑っとけ、ばーか」


 痛々しい捨て台詞を残し、それでも――勇者は、ここで死ぬわけにはいかない、と判断した。

 必ず、帰って来る。

 今度こそ、魔王を討伐する力を携えて。


 踵を返し、幼馴染の肩に手を添える。

 マチルダがその手を取る。二人は並んで、扉を開け、廊下へと踏み出していった。

 重々しい音で唸りながら、蠢く紋様の扉が閉まっていく。

 瘴気が名残惜しそうに、勇者たちの残像を象っていた。


 その残像もぼやけ、やがて背景と同化すると、やがて静寂が部屋を満たした。

 残ったのは玉座に座する魔王、ただひとり。変わらず、不気味な笑みを浮かべ続けている。


 その笑みが、さらに大きく。

 不気味に開いていく。

 世にも可笑しい珍事を見たかのように、大きな、笑みが顔中に広がっていく。


 いや、笑みではない。


 顎の先が首に触れ、胸をたどり、玉座のふもとへ、ぼとりと落ちた。


 ぼと、ぼと、ぼとぼとぼとぼとぼとぼとぼと。

 粘性の高い体液が後に続く。


 続いて、魔王の頭がぐらりと揺れて、地面に堕ちた。ぐしゃり。潰れて、紫色の飛沫が舞った。

 続いて、首が、肩が、腕が、胸が、臓腑が、背骨が、骨盤が、ぐしゃりぐしゃりと順に堕ち、瘴気まみれの黒い床を体液で上塗りしていった。


 瘴気ではない。これは魔族の腐臭だ。


 魔王は、勇者たちを待ち構えながら老いを重ね、寿命を迎えて、死んでいた。朽ちていたのだった。

 人類を蹂躙し始めてから、すでに一世紀以上の月日が過ぎている。城の周囲に配置した魔物は不死系ばかり。生者の感覚を持たぬ部下たちは、主の死にも、立ち込める腐臭にも気づくことなく、ただ命令通りに城を守り続けていたのだった。


 一体いつから、魔王は死んでいたのか。その答えは、誰も知らない。

 少なくとも今、怨念に満ちた黒い人骨の玉座に、魔王の姿はない。


 ただの醜い肉塊が、周囲を汚しているだけだった。


<了>

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