後編

 最初に戻ってきたのは、痛みだった。

 

 皮膚という皮膚が、別の“何か”にすげ替えられている途中のような、じくじくとした痛みが押し寄せてくる。


 あまりの痛みに飛び起きたいが、そんな気力はなかった。

 しばらく時間がたって、体を動かそうとして気が付く。

 自分の上にのしかかっていたはずの“何か”の重さがないことに……


 募る焦燥感に、急ぎ起き上がろうと床に手をついた。

 すると、タイルを引っかく音がした、驚き、自分の腕に目を向けると……

 

 ぬらりとした黒い腕、節くれ立った指の先には、刃物のような爪が光っていた。


 どういうことだ……


 部屋にあるシンクを覗いてみて、気が付いてしまった。

 俺が……“何か”になっている?

 そう、声を出したつもりの俺の口からは、低い唸り声が響いてきた。

 それでも、考えることだけはできた。


 あれだけの痛みの中で意識を手放したのに、こうしてまた目を覚ましてしまっている。

 むしろ、さっきよりも感覚は研ぎ澄まされている気さえした。

 そして——胃の奥から、どうしようもない感覚がこみ上げてきた。


 飢え。


 空腹、という言葉では足りない。

 何日も何十日も何も食べていないような、骨の髄まで空になっているような感覚。

 それが、波のように押し寄せる。


 ……何か食べないと


 飢えに支配された身体が、きしむ床に爪を立て、一歩を踏み出した。

 どれほどの時間、館の中をさまよっていたのか分からない。

 昼なのか夜なのかも分からない。

 飢えに支配された俺は何度か、自分の体の一部を噛みちぎってみた。

 この飢えごと、すべて終わらせられるのではないかと思ったからだ。

 だが、肉は裂けても、痛みはすぐにどこかへ薄れていく。

 穴が開いたはずの場所は、じくじくとした熱を残したまま、いつの間にか塞がっている。

 飢えは、少しも減らなかった。


 ……おかしくなりそうだ

 いや、もうとっくにおかしくなっているのかもしれない。

 自分が人間なのか、そうでないのか、その境目も分からない。


 そんなときだった。


 玄関ホールのほうから、ノックの音が聞こえた。


 誰か来るのかもしれないと思った俺は、急ぎ二階に上がる。

 体を隠すように、玄関ホールの欄干の影から、そっと下を覗き込む。


 「すみません、どなたか!」


 聞き覚えのある台詞だった。


 「車が故障してしまって、電話をお借りしたいんですが!」


 健の声だ、と思った。

 反射的にそう思って、すぐに否定する。

 そんなはずはない。

 健はもう、この館のどこかで、跡形もなく——。


 なのに、聞こえてくる会話は、どこか懐かしかった。

 玄関ホールに、見慣れた四人と、見慣れないがよく知る男が一人立っていた。

 そこにいるのは、この館に来たばかりの俺たちだった。


 頭が混乱する。

 過去を見ているのか、未来なのか、まったく別の世界なのか。

 時間の感覚が狂っているだけなのかもしれない。

 それでも、ホールに立つ五人の会話も、表情も、服装も、あまりにも「さっきまでの自分たち」と同じだった。

 こんなことがありえるのか。

 だが、この館の中で起きたことを思い返せば、「ありえない」のほうが少ない気さえする。

 もし、このままみんなが無事に帰ってくれればこんな悲劇は起きないはずだと思った。


 しかし、胸の奥——この歪んだ体のどこかで、別の感情がもたげてきた。


 飢えだ。


 五人分の匂いが、玄関ホールに満ちていく。

 皮膚の下を流れる血の匂いが、甘い香りとなって喉の奥を刺激する。


 やめろ……やめてくれ

 心のどこかでそう願うのに、足は勝手に動いてしまう。


 以前、自分たちがそうしたように、一人が「じゃあ俺は二階見てくる」と言い出す。


 階段を上ってくる足音の一段ごとに、飢えが強くなる。

 喉の奥で、低い唸り声が漏れそうになるのを必死でこらえる。


 影が、廊下の角を曲がってきた。


 顔を上げた青年と、廊下の奥の“俺”の視線がぶつかる。

 逃げろ宙!

 そう叫ぼうとした。

 だが、こぼれたのは言葉ではなく、腹の底から絞り出された咆哮だった。


 次の瞬間、俺は床を蹴っていた。

 飢餓感に、あらがえなかった。

 自分の肉を噛みちぎっても終わらなかった飢えが、目の前の「肉」を前にして、理性を簡単に踏み潰していく。


 伸ばした腕の先で、宙が力を失っていく。

 肉の温度と、骨が砕ける感触と、喉を滑り落ちる鉄臭い味。

 それが、さっきまで自分とくだらない会話をしていた友達のものだと理解したのは、飲み込んだあとだった。


 飢えはそこで止まらなかった。

 健の匂いに、咲の匂いに、次々と牙を向けていく。

 逃げ惑う気配も、上擦った叫びも、やがてすべて同じ「ぬくもり」と「味」に溶けていった。


 そして——最後に残った玲奈の体温さえ、俺は自分の奥底に流し込んでしまった。


 そこでようやく、飢えが少しずつ遠のいていく。

 代わりに戻ってきたのは、耐えがたいほどの自己嫌悪だった。


 なぜ、よりにもよって玲奈を食べたあとで、正気に戻るんだ……

 失意に沈み、倒れている“俺”には目もくれず外に出ていく。

 あれは俺なのだ。

 きっとあの部屋に行って、薬品を使ってこの“何か”を倒そうとするのだろう。


 これで終われる……。


 そう思うと、おとなしく俺からの裁きを待つことにした。

 玲奈を守れなかったこと、玲奈を食べてしまったことに心の中で謝罪しつつ、近づいてくる足音をただ聞き続ける。


 こうして、どこかの誰かが「2025年の大学生五名失踪事件」と呼ぶことになる話は、静かに完結したのだった。


 だが、この悲劇がいつ始まり、いつ終わるのか。

 なぜ、2024年の都市伝説になったのか、その答えだけは、最後まで分からないままだった。

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【出所不明の都市伝説】「2025年大学生五名失踪事件」 藤城ゆきひら @wistaria_castrum

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