中編
右側の廊下は、思ったよりも静かだった。
歩くたびに床板がかすかにきしむ音だけが響いている。
「ねえ悠、ちょっとさ」
玲奈が小声で言う。
「さっきから、なんか変な匂いしない?」
「変な匂い?」
「ほら、病院とか、理科室とかで嗅いだことあるような……」
言われてみれば、確かに、鼻の奥を刺すような匂いがする。
玄関ホールではこんな匂いはしなかったはずだ。
「この先に、なんかあるのかもな」
俺は適当にそう答える。
途中の扉をいくつか開けてみたが、中はどれも空き部屋だった。
古いベッドや箪笥がそのまま残されている部屋もあったが、どれも人の気配はない。
「おっ」
奥の方の一室を開けた瞬間、思わず声をあげてしまった。
そこは他の部屋と少し様子が違っていた。
白いタイル張りの床。
壁際には、ステンレス製のシンクや作業台が並んでいる。
棚には、ビーカーや試験管、ラベルの貼られたガラス瓶がいくつも並んでいた。
「ビーカーとか、小学生の頃の理科室を思い出すな」
俺はそう言いながら、棚に近づく。
瓶のラベルには、見たことのない薬品名が書かれていた。
そのうちの何個かはどう見ても危険であることを示すマークが入っていた。
近くにはファイルにまとめられた紙が落ちており、薬品の説明が書いてあるのかもしれない。
「……見たことのない薬品ばかりだな、怪しい実験でもしていたんだろうか」
俺はそうつぶやく。
そんなことをしている俺とは違い、玲奈が言う。
「駄目ね、電話は何処にもないわ、まだ十五分も経っていないけど、この部屋が端のようだしホールに戻ろうかしら」
玲奈の発言に同意を返そうと思った時——悲鳴が聞こえた。
どこか遠くから、空気を裂くような叫び声が響いた。
「何かあったのか?とにかくホールへ戻ろう」
玲奈の手を引き、急ぎホールへ向かい始めた。
玄関ホールへ戻ると、誰の姿もなかった。
廊下の反対側と、2階どちらに行くべきか、それともここで待つべきか玲奈に相談しようと思ったその時。
今度は、廊下の先から男女の悲鳴が聞こえた。
玲奈のほうを振り返り、努めて冷静に声を出す。
「みんなに何かあったのかもしれない。とにかく、廊下の奥に行ってみよう」
怯えている玲奈の手を握り、左の廊下の奥を目指す。
何かがいるかもしれないことを警戒し、足音を小さくして歩いた。
少し歩いていくと、鼻をつくような、鉄臭い匂いがした。
絨毯が濡れ、暗い筋を描いている。
壁に付着した赤黒い液体、それが何なのか、理解するのに一瞬かかった。
認めたくない、という気持ちもあった気がする。
「これ、血なのか……」
少し放心していると、玲奈が俺の腕を引いてきた。
「悠、あれ……」
言われて廊下の奥のほうを見ると、四つん這いとも、二足歩行ともつかない、不自然な姿勢で、明らかに人ではない“何か”の輪郭が見えていた。
「——っ」
喉が凍りつき、声が出ない。
玲奈も同じだったのか、一歩も動けずにその場に立ち尽くしている。
その“何か”が一心不乱に足元の何かを食べていると認識したのは暫くしてからだった。
何かの口元には、見覚えのある服を着た人間が倒れている。
あれは、咲の服だ……
叫びたくなる気持ちを押さえて、玲奈を連れてホールへと戻る。
ホールから出ようと、ドアを動かすがびくともしない。
そのとき、俺たちが閉じ込められてしまっていることを理解した。
とにかく、あの“何か”から逃げなければ。
どこかから逃げられないか、混乱した頭では何も考えられなかった。
「悠、どうするの……?」
震える声で、玲奈が袖をつかんでくる。
「とりあえず、ここから離れよう。ホールにいたら、真っ先に見つかる」
俺たちは息を殺しながら、玄関ホールの脇に伸びる廊下へと身を滑り込ませた。
さっき薬品室を見つけた右側の廊下だ。そこなら、とっさに身を隠せる部屋もある。
背後から、重く湿った足音が、一段ずつ床板を踏みしめている。
あの“何か”が、こちらへ向かってきているのだと理解した瞬間、背筋が凍りついた。
「……入るぞ」
俺は一番手前の部屋の扉をそっと開け、玲奈を中に押し込む。
古い寝室らしく、ベッドと箪笥があるだけの狭い部屋だった。
やがて、廊下の向こうから、何かを嗅ぎ回るような音が聞こえてきた。
じっとりとした呼吸音。床板のきしみ。
扉一枚隔てた向こうに、あの“何か”がいる。
がた、と廊下側で物音がした。
次の瞬間——
ドンッ!
扉が内側に叩きつけられ、蝶番が悲鳴をあげた。
鍵なんて付いていない古い扉は、一撃で半分ほど開いてしまう。
「——うわっ!」
反射的に、俺は扉を押さえつけた。
向こう側から、信じられないほどの力で押し返される。
木がきしみ、指がめり込むほど力を込めても、扉はじりじりと開いていく。
「悠!」
玲奈も後ろから一緒に扉を押さえてくれる。
二人がかりでも、その力は止まらない。
扉の隙間から、ぬらりとした黒い腕のようなものが伸びてきた。
人間の腕より太く、節くれ立った指の先には、刃物のような爪が光っている。
「くそっ!」
俺は力尽きてよろめき、扉から手が離れた。
その瞬間、扉が内側へ弾け飛ぶように開き、俺と玲奈はベッドのそばまで吹き飛ばされた。
床を転がりながら、なんとか体勢を立て直したときには、すでに“何か”は部屋の中にいた。
天井に届きそうなほど背が高く、異様に長い手足。
皮膚は、火傷の痕のようにところどころただれている。
顔らしき部分には、目なのか穴なのか分からない影と、横一文字に裂けた口だけがあった。
その口が、かすかに開いた。
血のような匂いが、部屋の空気を満たす。
「玲奈、逃げろ!」
叫ぶより早く、“何か”が動いた。
信じられない速度だった。
床を蹴ったかと思うと、次の瞬間には玲奈の目の前に迫っていた。
「いや——っ!」
玲奈の悲鳴が、耳を引き裂く。
伸びた腕が彼女の体をつかみ、ベッドに叩きつけた。
「やめろ!」
俺はそばにあった椅子をつかみ、“何か”の背中めがけて叩きつけた。
乾いた音がして、椅子は簡単に砕け散る。
だが、そいつは気にも留めないようだった。
しかし、ゆっくりと振り向いた“何か”と目が合った気がした。
次の瞬間、俺は片手で軽々と壁に叩きつけられていた。
肺から空気が全部押し出され、視界が白く弾ける。
かろうじて意識をつなぎとめたまま、床に崩れ落ちる。
ぼやける視界の端で、玲奈が“何か”の腕に掴まれたまま、無理やり持ち上げられているのが見えた。
「や……め……」
か細い声が、彼女の唇から漏れる。
それきり、声は続かなかった。
ずるり、と何かが裂ける音がした。
俺は、もうそれ以上見ていられず、目を閉じた。
世界から音が消えた。
代わりに、心臓の鼓動だけがうるさいほどに響いている。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがて、床に落ちる重い何かの音とともに、“何か”の気配は遠ざかっていった。
——ここにいたら、俺もすぐにああなる。
震える足で立ち上がりながら、ふと、さっきの薬品室の光景が頭をよぎった。
白いタイル、ステンレスの台、並んだガラス瓶。
そして、あからさまに危険な薬品……
もしかしたら、“何か”にも効くかもしれない。
「……やるしか、ないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、俺はふらつく足取りで廊下に出た。
幸い、“何か”の姿はなかった。
だが、床には赤黒い筋がいくつも伸びている。
その一部に、小さなブレスレットの破片が混ざっているのが目に入った。
玲奈が、つけていたやつだ。
「ごめん……」
声にならない声を飲み込み、俺は薬品のあった部屋へ走った。
扉を閉め、鍵の代わりに近くの棚を入り口に押し付ける。
完全に防げるとは思わないが、少しでも時間が稼げればいい。
棚からファイルを取り出し、「危なそうなマーク」のついた薬品について調べる。
硫酸、塩素系の何か、強いアルカリ、そういった薬品もあるようだ。
その中に、全く聞き覚えのない薬品名があった。『フルオロアンチモン酸』というらしい。
厳重に保管されているらしいが、これを飲み込ませたら倒せないだろうか?
そのとき、廊下のほうで何かが棚を押しのける音がした。
「来たか……」
俺は『フルオロアンチモン酸』の入った入れ物を手に取った。
扉が破られるのと同時に、“何か”が部屋になだれ込む。
どうにか隙を見つけて、薬品を飲ませたいが、チャンスが見当たらなかった。
暫くにらみ合っていると、“何か”が唐突に掴みかかってきた。
爪が体に食い込むが、痛みを我慢する。
だが、直感でこのままでは助からないだろうと理解できた。
そこで覚悟を決め、薬品を握りしめた腕を“何か”の口に突っ込んだ。
“何か”は口に入った薬品を、俺の腕ごとかみ砕いた。
少しして、“何か”が俺を掴む力が弱まり、床に投げ出された。
しかし、もう動く力も気力もない。
“何か”が俺の体に倒れてきた。
重い体に押しつぶされ、熱い液体が顔にかかり、皮膚が焼けるように痛い。
痛い。
痛くて、息ができない。
それでも、意識が手放せない。
“何か”を倒せたのだろうか、しかしざまあみろなんてことを考える余裕はなかった。
——早く、終われ。
そう願ったところで、ようやく、すべてが暗闇に沈んだ。
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