前編

 2025年3月某日。

 俺たちは大学の卒業旅行で、前々から計画していた「廃墟巡り」の真っ最中だった。


 現在運転しているのは俺、斎藤 悠(さいとう ゆう)。

 助手席に座っているのは中村 健(なかむら けん)。

 後部座席の右側に座っているのが、俺の彼女の高梨 玲奈(たかなし れな)。

 左側にいるのが、健の彼女の花村 咲(はなむら さき)。

 そして、なぜかその二人のあいだに挟まれているのが、宇野 宙(うの ひろし)だ。


 「なあ悠、いいかげん席替えしない? 俺だけ触れたら死ぬみたいな状況なんだけど」


 咲と玲奈のあいだから、宙が情けない声を上げた。


 「自分でそこ座ったんじゃないか。『両手に花だぜ〜』とか言って」

 助手席の健が笑う。


 「言ったけどさぁ、やっぱ両方が人の彼女だと、逆に狭く感じるというか……」


 そんな他愛もないやりとりをしながら、俺たちの車は県境に近い山道をゆっくりと登っていた。

 卒業旅行の四日目。

 廃ホテルや廃遊園地を巡ってきて、今日はその日程の折り返しだ。


 宙が遠くの山並みを眺めながら言う。

 「大学生活の締めが“廃墟巡りツアー”って、俺たち相当センスあるよな。普通、海外とか南の島とかに行くだろ」


 「それ言い出したのお前だろ」

 俺はハンドルを握りながら苦笑する。

 「都市伝説とかの動画にハマって、旅行のしおりまで作ってきたの誰だよ」


 「だってさ、卒業したらこんなバカみたいな旅行できないじゃん? 今のうちにしか行けない場所に行っとかないと」


 「バカみたいって自覚はあるんだね」

 玲奈が、後ろから俺のシート越しに言う。

 「でもまあ、楽しいからいいけど」


 ミラー越しに見えた玲奈の笑顔に、俺も少しだけ肩の力を抜いた。


 「そういやさ」


 ふいに、宙が思い出したように口を開く。


 「ネットで見たんだけど、『2025年の大学生五名失踪事件』って知ってる?」


 「そんな事件、テレビでやってたか?」

 健が宙に問いかける。


 「2024年に流行った都市伝説でさ。“2025年に卒業旅行中の大学生五名が失踪した”っていう話なんだよ」


 「2024年に2025年の事件が都市伝説になったの? それって予言じゃない」

 俺も内心思っていたことを、玲奈が先に口にする。


 「そうなんだよ。“予言じゃないのか?”って当時も言われてたみたいでさ。“2025年に大学生が卒業旅行に行くのは控えたほうがいい”なんて書き込みもあったんだ」


 「お前、そんな噂を知ってて俺たちに卒業旅行を提案したのかよ」


 そう言って笑ったこのときの俺たちは、

 本当に「笑い話」でしかないと思っていたのだ。


 「……あれ?」


 「どうした、悠?」

 健がこちらを見てくる。


 「いや、ちょっと……エンジンの調子が悪いかも、ガソリンはまだあるんだけど」


 「マジで? この山道、コンビニどころか民家も見てないし、ここで止まるのは勘弁なんだけど」

 宙が後ろから身を乗り出す。


 「とりあえず、様子見ながら行くしかないでしょ」

 玲奈が、少し不安げに言った。


 そう言っているあいだにも、エンジンの唸りはどんどん不規則になっていく。

 そして、車体がぐらりと大きく揺れ、そのまま力なく停止した。


 「……嘘だろ」


 キーを回しても、エンジンはかかる気配がない。


 「終わったな」

 宙が、やけに明るい声で言った。


 「笑いごとじゃないから」

 健が即座に突っ込む。

 「とりあえず路肩に寄せておいて正解だったな……」


 外は、さっきまでよりも一段暗くなっていた。


 「電波、入る?」

 玲奈がスマホを取り出しながら言う。


 それにつられて、車内の全員が自分のスマホを確認した。

 結果は、全員同じだった。


 「……圏外」

 咲が顔をしかめる。

 「さっきまでギリギリ一本立ってたのに」


 「こういうときに限ってだよなあ」

 健がため息をついた。

 「ロードサービス呼ぶにしても、そもそも電話が通じないんじゃどうしようもない」


 「誰か、山の神様怒らせたんじゃない?」

 玲奈の冗談めいた一言に、車内が一瞬だけ静かになる。


 「おい、それやめろ。リアルにフラグみたいに聞こえるから」

 宙が慌てて手を振った。


 車の外には、細い山道が、夕闇の中に黒い線のように伸びている。

 人家の気配はどこにもない。

 風の音と、遠くの沢の水音だけが聞こえていた。


 「電波が届くとこまで歩くか」

 健が現実的なことを言う。

 「さっきの分岐まで戻れば、国道に出られるかもしれない」


 そのときだった。


 「あれ、見て」


 玲奈が、窓に額を寄せるようにして言った。

 視線の先を向くと、木々の隙間の向こうに、小さな明かりがひとつ、ぽつりと浮かんでいる。


 「こんなところに民家……にしては、でかくないか?」

 健が目を細める。


 車から降りてみると、山の空気は想像以上に冷たかった。

 土と木の匂いが混ざり合って、肺の奥まで冷えていくようだ。


 視線を凝らすと、暗がりの向こう、斜面を少し登ったあたりに、二階建ての洋館らしき影が見えた。

 窓のいくつかに、暖色の明かりが灯っている。


 「なんだあれ……ペンションとか?」

 宙が目を輝かせる。


 「なんにしても、人がいるなら話はできるだろ」

 健が腕時計を見ながら言う。

 「この時間から山道を歩き回るより、まずはあそこで電話を借りられないか聞いてみよう」


 「そうだね。車はここに置いていくしかないし」

 玲奈がうなずく。

 「鍵、ちゃんとかけておいて。貴重品だけ持っていこう」


 俺たちは最低限の荷物だけを掴むと、薄暗い山道を外れて、斜面を登りはじめた。


 近づくにつれ、洋館の輪郭がはっきりしてくる。

 古びた石造りの外壁。ところどころヒビは入っているが、窓ガラスはどれも割れていない。

 玄関まで続く石段には、薄く苔が生えていたが、最近人が通ったような、わずかな足跡のようなものも見えた。


 「明かりがついていなかったら、いかにも“廃墟です”って感じだよね」

 冗談交じりに玲奈が笑った。


 「そしたら、アクシデントで巡る廃墟が増えるだけだったね。まあ、“現役の山奥ペンション”ってことでしょ。ラッキーじゃん」

 宙が上機嫌で言う。

 「よし、宇野宙、交渉担当として華麗に——」


 「宙くんは黙ってついてきて」

 玲奈がぴしゃりと言い、先に石段を上っていく。


 重そうな木製の玄関扉には、真鍮のノッカーが付いていた。

 玲奈がそれを持ち上げ、控えめに扉を叩く。


 コン、コン。


 館の中に、乾いた音が吸い込まれていく。

 しかし、返事はない。


 「もうちょっと強めでいいんじゃない?」

 宙が言い、今度は自分でノッカーを握る。

 勢いよく叩きつけると、鈍い音が廊下の奥まで響いていった。


 「すみませーん! 車が故障しちゃって! どなたかいませんかー!」


 宙の声が、山の夕暮れにむなしく散っていく。

 やはり、返事はない。


 「留守……なんですかね」

 咲が不安げに扉を見つめる。


 「でも、中に明かりついてるぞ」

 健が、ガラス窓から中を覗き込む。

 「ほら、ホールみたいなところの照明、全部ついてる」


 確かに、玄関ホールらしき空間に、シャンデリアの柔らかい光が落ちているのが見えた。

 埃っぽさはあるが、電気も通っていて、廃墟というわけではなさそうだ。


 「……とりあえず、開くかどうかだけでも」


 俺は、ノブに手をかけた。

 重厚そうな見た目に反して、鍵はかかっておらず、扉はあっさりと内側へと開いた。


 「失礼しまーす……」


 俺たちは恐る恐る中に足を踏み入れた。


 玄関ホールは、想像していたよりも広かった。

 絨毯が敷かれた床、左右に伸びる廊下、正面には二階へ上がる階段。

 壁には古い絵画や、誰のものか分からない肖像画がかかっている。


 「おお……ここ、マジで当たりスポットじゃない?」

 宙が小声で感嘆の声を漏らす。


 宙の言葉に玲奈が眉をひそめる。

 「今は廃墟探索じゃなくて、電話を貸してもらえないか交渉にきたんだよ」


 「すみません、どなたか!」

 健が、ホールの奥に向かって声を張る。

 「車が故障してしまって、電話をお借りしたいんですが!」


 しん、とした沈黙が落ちる。

 聞こえるのは、自分たちの足音と息遣いだけだ。


 「本当に誰もいないのかな……?」

 咲が不安そうに肩をすくめる。


 「とりあえず、中を見て回って、誰もいなさそうなら一旦戻ろう」

 健が提案する。

 「勝手に奥まで入るのは気が引けるけど、このまま山道に取り残されるのもきついし」


 「じゃあ、悠と玲奈で右の廊下を見てくれ、健と咲とは左、俺は2階に行ってみる」

 宙が手早く仕切ろうとするので、俺は思わずツッコミを入れた。


 「なんでお前がリーダー面なんだよ」


 「いや、どちらかのカップルと一緒に動いたら、気まずくなるだろうが……」


 「はいはい、じゃあ宙の提案通りに分かれよ」

 玲奈がきっぱりと言って、あっさり決めてしまう。

 「悠と私が右、健と咲が左、宙は二階ね、十五分くらいでこのホールに戻るってことで」


 結局、そういうことになった。


 このときホールで別れたのが、五人全員で顔を揃えた最後の瞬間になるなんて、

 そのときの俺は、考えもしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る