still in love

羽鐘

繰り返される朝

 スマートウォッチが煩く震え、僕の安息の刻を引き裂き、現実へと呼び戻す。甘い微睡みを求める瞼を、かろうじて引きはがす。

 隣には、静かな顔で眠る彼女。暗幕のようなカーテンが朝の光を遮断した薄暗い部屋で、彼女は身じろぎひとつせず、深い眠りの底に沈んでいる。

 彼女の頬にキスをする。唇に触れた肌は、冬の朝の凍てついた空気を吸い込んだように冷たい。心に熱を帯びる今の僕には、その冷たさが心地いい。


 リビングへ向かい、コーヒーを淹れ、雑にバターを塗りたくってトーストを焼く。タバコに火を点けようとして、立ち止まる。

 紫煙の匂いが、彼女のまとうナイトコロンの香りの邪魔になる気がして、ライターと一緒にソファの上に投げた。

 大きく溜息を一つ吐き、ソファに腰をおろす。タバコの箱がぐしゃりと潰れたが、気にしない。


 トースターが、チン、と鳴る。皿にのせて、手を合わせる。

 スマートウォッチが、出社までの残り時間を刻んでいく。

 その近くには青色がかった痣がひとつ。彼女が残した噛んだ跡。

 虐待を受けて育った彼女は、愛を試すため、噛み跡を残す。まだ、しくりと痛む。それが彼女の、そして僕の愛の証。

 酸味がたつコーヒーで、トーストを胃袋まで落とす。バターの香りが一瞬だけ、鼻をくすぐる。

 のろのろと身支度を整え、玄関に立つ。一歩でも外に出ると、いつもの冷たい現実が始まる。蚊の鳴くような声で「いってきます」と、僕の存在を一つ残す。


 扉を開け、音をたてないようにゆっくりと閉める。

 彼女は、静かに眠っている。


 ◇ ◇ ◇


 彼女と僕は、互いに傷を持っていた。

 同期入社だった僕らは、教育という名のパワハラに共に耐えることで、距離を縮め、お互いの境遇に共鳴した。

 

 僕の父親は、家族を簡単に捨てた。

 母親ががん治療をしているなか、女子高生に入れ込んだ挙句、家を出た。

「これから腐っていくだけのお前たちは、もういらない」

 抗がん剤の影響で髪を失い、かつての美しさを失った母と、仕事と介護に忙殺されて疲れ切った僕に、笑顔で言い捨てた、父の言葉。


 それでも母は、死の間際まで、裏切った男の身を案じていた。

「元気だろうか」「ご飯は食べているだろうか」と、命が尽きる寸前まで。 

 痩せ細った腕は、激務のなか介護する目の前の僕ではなく、虚ろな記憶のなかの父を求めていた。

 父からも母からも、僕は、捨てられるだけの存在だった。


 彼女も同じだった。

 親からの虐待で彼女は自己を喪失していた。親から得られない愛を、彼女は男の温もりに求めた。

 誰かに依存しなければ息もできない彼女。温もりのために男を求め、温もりをつなぎとめるために借金を重ねていた。

 傷つき、羽が折れた僕らは、自然と近づき、互いを求めるようになった。

 彼女は僕に甘え、愛を試すように、僕に噛み跡を残すようになった。

 腕に走る鮮烈な痛みが、彼女の愛の証だった。

 会えない時間が長くなれば、彼女は孤独に怯え、噛み跡は深くなった。

 深まれば深まるほど、僕は心は狂おしく、身を焦がすほどの熱を帯びた。


 ある日、僕は出張に出ることになった。彼女にとって、二泊三日の、短くて長い孤独が待っていた。

 ビデオ通話では、満たされなかった。甘い囁きは、アスファルトに染みを残すだけの雪のようだった。それでも、僕は言葉を届け続けた。

 腕の噛み跡が、鈍く、痛んだ。


 出張を終え、僕は家路へと急いだ。

お土産は、彼女の好きなチーズタルト。

 慌てて送ったメッセージに、既読がいつまでも付かず、不安が胸を締め付けた。

 震える手で扉を開けると、彼女は、僕らの同期の友人に抱かれていた。

 

 僕が投げつけたチーズタルトが、ぐしゃりと、ぬめる音を立てた。

 タルトと、彼女のナイトコロンの匂いが満ちた部屋を、僕は飛び出した。

 何か聞こえた気がしたが、僕の耳には届かなかった。


 ◇ ◇ ◇


 月が、冷たい空に浮かんでいた。

 街灯もなく、闇が覆う公園の林のなかで、月は静かに友人の顔を白く照らしていた。

 もう、友人の濁った瞳には光はなく、瞼を閉じることもなく眠りについていた。

 僕は、生臭くぬめる液体をこびりつかせた友人を、静かに池に沈めた。

 ゆっくりと沈んでいく友人は、何かを求めるように、月に向かい手を伸ばしているようだった。


 僕を公園へと呼び出した友人が、まだ言葉を出せたとき、こう漏らしていた。

 彼女から誘ってきた、相談に乗っていた、慰めていた、それだけだと……

 取り繕うだけの空虚な言い訳と愛想笑いが、父の最後の笑みに見えた。

 それでも「もう気にするな」と、本当は言いたかった。

 何も失いたくない……そう、思えて仕方なかった。

 友人には、月明かりに照らされた僕の顔が、どう見えていたのか?

 僕を慰めるように伸ばした腕に、噛み跡が見えた。それは、僕のものより深く紅く刻まれていた。

 次の瞬間、隠し持っていたナイフが、友人の腹に吸い込まれた。

 目を見開き、喘ぐ友人に、僕はさらに力を込めた。

 右手に伝う生温かさは、凍える僕の震えを止めることはなかった。


 ◇ ◇ ◇


 重く錆び付いたような扉を開けると、彼女は泣きながら僕の胸に飛び込んできた。

 寂しかったと、ありふれた何かを言っていた。

 すぐに僕の首に腕を絡ませ唇を塞ぎ、舌が、僕に侵入してきた。僕はそのまま求めに応じ、愛を確かめたあと、白く柔らかな首筋に歯を立てた。

 彼女は、色を含んだ吐息を落とす。そのまま、僕の腕をとり、傷をつけないように優しく噛んだ。

 痛みのない行為が、僕を傷つけた。

 発作的に、友人の血が付いた刃を、しなやかな肌に深く食い込ませた。

 僕を噛む力が強まり、血が滲んだ。最後の愛の痕跡が深く刻まれた。

 やがて温もりを失い、ガラス玉のような彼女の瞳から、涙がこぼれた。

 それを優しく拭いて、誰よりも深い眠りに落ちた身体を綺麗に洗い、ベッドに横たえた。

 僕はなにもかも失った。でも、もうなにもなくさなくなった。


 ◇ ◇ ◇


 今日もまた、スマートウォッチが煩く震え、僕の安息の刻を引き裂き、現実へと呼び戻す。苦く甘い微睡みを求める瞼を、どうにか引きはがす。

 隣には、静かな顔の彼女。時が止まった薄暗い部屋で、彼女は身じろぎひとつせず、変わらず深い眠りの底に沈んでいる。

 彼女の、少しだけしぼんだ頬にキスをする。唇に触れた肌は、もう温もりを忘れたかのように凍てつき、冷たい。

 僕は優しく髪を撫で、彼女の好きだったナイトコロンを吹きかける。

 いつものようにコーヒーを淹れ、バターを雑に塗ったトーストを焼く。

 足元には、香りを失ったチーズタルトが転がっている。

 一つだけ溜息を吐き、ソファに座る。

 トースターが、チン、と鳴る。それと同時に、無機質な呼び鈴の音が響いた。一度、もう一度と。

 訪れる別れの予感。

 彼女の顔を見つめ、呟く。


「まだ、愛しているよ」と。

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