第3話 現実への帰還

 彼女は手ぶりで、俺と同じものを同じようにと注文する。俺が飲んでいるのは、ストレートのラムなのだが大丈夫だろうか。マスターは俺に親指を一本ぐいと立てて合図する…作戦スタート、とはいえ何も特別な作戦があるわけではない。後はどうにかするってことだろう。

 普段はグラッパが注がれるグラスにラムが注がれて、スタンダールのもとに。彼女は香りを少し嗅いだのち、なめるようにラムを口にする。かなりアルコール度数が高いが、彼女は顔色一つ変えず、むせることもない。運んできたヨーコちゃんもうれしそうだ。その唇の動きは…がんばって、と言っているようだ。一体何を頑張るというのだ…。

 スタンダールが間近でその顔をこちらに向けているので、ようやく俺は彼女をよく見る。ツンととがってまっすぐな鼻。ちょっととがらせ気味なぷっくりとした唇。少女漫画のような長いまつ毛の下で、目はやや細められて何らかの疑念か怒りをこちらに継続的に伝えてくる。それでも俺の居心地が悪くならないのはなぜだろう。年齢は30歳くらいだろうか。

テーブルの下では、時々神経質に脚を組み換えられ、ワンピースのすそが治されている様子。そうか、背が高いから、普通のワンピースも彼女にはミニ丈風になってしまうということか。

それにしても、彼女も俺もお互い何も言わない。これは、俺へのトラップ?俺へのいやがらせ?俺は何か悪いことしただろうか?あのいたずらがそんなに嫌だったのだろうか?


このスタンダールと俺が形成する異様な状況は、彼女の形成する異世界の世界観が合致するのか相反するのか。いずれにせよ非常に不思議なことに、波と波が打ち消し合うように、周りの注意をひかないようだ。そして、豊島はどこか遠くの方にいるかのように勝手に話をしている。この事実に目をそらしているのか、気づかないのか。奴はしゃべる。あるいはスタンダールは異世界では魔法でも使うのだろうか。それはそれであまりにしっくりする理由だ。

スタンダールは、名前を朝倉ゆかりと言うらしい。東急東横線沿線の大学で働いているらしい。彼女が豊島の方など全く顔を向けず、ただ俺とラムへ視線を往復させていることなど気づかないかのように、豊島は何事かをしゃべっている。彼女の方が豊島のことを一目ぼれしただとか、こんな出会いはないだとか。とにかく彼はスタンダールを褒める。気づくと、彼女が俺へ見せる表情が和らいできた。怒りではなく、中間を少し超えて、好意の方へ。しかしそれには少しだけいら立ちがこもっている。たぶんそれは豊島に対するものか。

俺たちがラムをちびりちびりと飲んでいるうちに、奴は何杯ものビールをがぶがぶと飲んでいる。どれくらいの時間が過ぎただろうか、豊島は突然立ち上がり、トイレの方へふらふらと向かい始めた。


 彼が視界から消えた瞬間、俺がグーだかチョキだかわからない手を出して、彼女は手を観音菩薩のように広げてそれを制する。制してくれてよかった。俺は何を話せばいいかわからなかったから。

「謎は全て解けた!」

初めて聞くスタンダールの声は想像より低く、落ち着いている。しかし発言はむしろ謎そのもの。

「は?」

「あたし、電車が出た後すぐにメール送ったのよ」

「俺はうけとってない」

「やっぱり。そうだと思うわ」

「どういうこと?」

「あなた、自分の名刺入れに、相手からもらった名刺もしまっているんじゃない?あたしが急いで取った一枚の名刺が、あの人の名刺だったのよ。あなたのではなくて」

 そういえば。そのあと整理するまで、俺は自分の名刺入れの奥の方に受け取った名刺を一時保管する癖がある。確かに、あの出会いがあるちょっと前に豊島の名刺を受け取っていたことを思い出した。そして、その名刺を自分の名刺入れに差し込んだこともかすかに覚えていた。

「そういうことか…この行き違いは、そもそも俺のせいなんだな。本当にすまないね」

「お互い急いでいたしね」

「でも、俺だけがあの出会いを特別だと思っていたわけじゃなくて安心したよ」

 彼女は目に見えて安心したようだった。空気の緊張感が大幅に減じる。

「そりゃそうよ。あたしだってあんな…特別な出会い方というか心の通い方?経験したことないもの。体の芯からぞくぞくしたもの」

 俺たちは、ホームでの出来事をしばし追体験し、その余韻に浸った。

「それで、豊島に連絡して…付き合うことになったの?」

「違うわよ!付き合ってなんてないし!」彼女は思ったより大きな声をあげる。「メール出したら、返事が来て、なんかずれてるなと思いつつ気を取り直して会うことにしたのよ。そしたら遠目であっても様子がずいぶん違うじゃない。ようやく何か間違っているって気づいたの」

「それは、男性代表として申し訳なく思う…」

「あたし、誤解だって何度も何度も言ったのよ。彼は朗らかだし人好きするところがあることも認めるわ。でも彼、全然聞く耳持たないじゃない。今回の会合のセッティングだって、あたしは固辞したのに、無理やりでさ。それであたしは今回、証人の前で徹底的にお断りを告げるつもりで来たのよ」

彼女は独り言で続ける。「証人があなたになるとは思いもしなかったわ…」

豊島の強引さを知る俺としては、それはうなずける。

「でも、豊島、彼女の方からコクってきたとか言っていたぜ」

「そりゃあ!…コクっているように見えたでしょうよ…」吐き出すように言った言葉は、語尾においてその勢いを失う。「最初のメールに、興奮冷めやらないまま、それに近いこと書いちゃったんだし…」

スタンダールは、俯いて、運動のせいではなく上気した表情を浮かべる。目もうるんで、無茶苦茶恥ずかしそうな様子だ。これはますますかわいい!

「へぇ…」

「あなたそんな優越感に浸る顔しないでよ!もともとはあなたがミスったんだから!」

 俺は身を乗り出す。彼女の香りをたのしめる。

「ごめんごめん。じゃあ、埋め合わせさせてくれる?」

 彼女はさらに身を乗り出し、俺との距離は腕一本分もなくなる。彼女の吐息すら感じる。

「埋め合わせっていうより、やり直ししようよ」

「確かに!先に俺から君へ気持ちを伝えたいと思ってた」

「それ…とっても嬉しいわ」

 その声は甘く切実で、俺をしびれさせる。


 店を出ることにした俺たちは、ほぼ同時に立ち上がった。豊島には悪いが、俺たち二人のどちらの気持ちも無視した強引さについて、いい薬になるという言い方もできよう。

 話を聞いていたか聞いていなかったか、マスターとヨーコちゃんは俺たちのコートの準備を終えていた。ヨーコちゃんはスタンダールにコートへ腕を通させつつ、小声で俺に伝える。「略奪愛、ガンバ!」

 その誤解が痛く、俺は無意識に顔をしかめる。応援してくれるのはうれしくはあるけれども、そういうのではないんだが…ま、まあ今度来た時に説明するとしよう。俺は財布からあるだけ紙幣をつまみ出して、マスターに渡す。マスターは両手の親指を立てる。

 彼女に先立って階段を上って地上へ向かおうとする。そこでふと俺は気づいた。彼女が異世界への転移のきっかけだとしたら、その異世界は広尾駅同様に地下のみだとしたら、ここから地上に出たらスタンダールはいなくなってしまうのではないか。思わず立ち止まった俺に、彼女は後ろから声をかけてきた。

「どうしたの?あたし、ついてきてるよ」

 俺は振り返って、相変わらずカバン一つ持っていない彼女の手を取る。冷たく、細く、なめらかで、現実感ある手。彼女は少し驚いたようだが、俺の手を強く握ってくる。そうだ、つかまえておけば、スタンダールを現実世界に引き出せそうだ。

 俺は、そのまま階段を上がって地上に出る。スタンダールも地上に現れ、俺の腕に体を寄せてくる。地上の喧騒の中、彼女はすがるように俺を間近で見つめる。その背はやはり俺より少し高い。

「さ!どこ行こう?」スタンダールの声は明るい。

俺は現実世界にスタンダールと共に帰還することに成功した。

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異世界で出会ったスタンダールでライカな女が、すべての謎を解いて、俺と共に現実世界へ帰還する件 愛川蒼依 @AKBK

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