第2話 現実世界にあって異世界での出会いに惑う
その日、全体会議に何とか間に合った俺は、自分の担当の投資先について用意していた状況報告を行い、同僚たちの報告に耳を傾ける。傾けるものの、耳には入ってこなかった。スマホを見ないように気を付けていたってこれだ。あの女性からの連絡が気にかかる自分がかわいい。しかしあの女性は軽々しい性格ではなさそうだ。おそらく返事をくれるとしたら仕事を始める前か、それとも昼の休憩時だろう。しかし…昼どきでも俺のスマホには何の連絡もない。
そうか、俺のように集中力を途切れさせないよう、昼を抜いて仕事を行い、早めに上がろうという魂胆か。あるいは、あれほど痛快な性格だ。昼時には同僚からのお誘いがかかり、楽しくも有意義な時間を過ごしているのだろう。そうであれば、連絡が来るとしたら夕方を過ぎてからだろう。俺はいつものように早めにあがり、明治屋でチーズと白ワインを調達する。昨日の残りのラタトゥイユはより味が染みている。半日かけて作っただけあった…途中まで作り方が同じなので作り置いてあった茄子の煮びたしには手を付けないですんだ。ボトル半分を開けた時、ついスマホに目をうつすがあの女性かららしき連絡はない。
俺にとっては何とか週中を乗り切った。その週末は、野辺の仕切る美術展の最終日だったから、六本木の新美術館に赴き、俺は美術と野辺君のねじれた解説を楽しむ。山種美術館はまた今度にして、渋谷で気になる映画を2つ見る。空いた時間には1時間かけて玉ねぎを炒める。俺にとっては瞑想であり、マインドフルネスになる大切な時間。半分を冷凍し、半分を今使おう。牛乳も入れるサルズベリー・ステーキを8つ作った。日曜も夜半になり、来週の仕事が嫌でも気になり始める。しかし、スマホを見てもやはり連絡は来ていない。
一週間がたった。俺の中から毒気が抜け、日ごろのパフォーマンスが戻ってきた。それは引き続いて映画の世界にふわふわと漂っていた自分がグラウンディングし、現実世界に戻ってきたということか。それは仕事の上では喜ばしいことではあるが、グラウンディングも重要ではあるが、心の満たされ具合と言う意味では全く喜ばしいことではない。
あれほどの強烈な印象の出会い。どう考えても、俺だけが何かの続きがあることを期待していたのではなかろう。一体どういうことなのだろうか。まさか事故にあって…しかし確率的にはそういうことは考えにくいし、あの日に大きな事故のニュースもなかった。それとも、俺にとって特別でも、あのスタンダールな女性にとっては、こんなことは日常茶飯事と言うことも知れない。何しろ、あれだけ目立つし、あれだけ性格もよければ、さまざまな好ましいアクシデントが起こるに違いないだろう。そう考えると、俺はただ自分一人で浮かれていたのだろうかと思える。我ながら気が滅入る。
それでも俺の心の一部は何か期待していたのだろうか。俺はあの時間のあのホームに居ることを避け始めた。いや、俺も別にそもそもあのやや遅い時間帯に出勤することにしていたわけではないから、自然に足が遠のいただけだ。それに…彼女が俺に連絡を取りたくないのであれば、そうした相手と出くわすのも、彼女にとっても気まずかろう。俺としてもストーカーと思われては残念だ。
俺は、あの映画のような出来事は、現実世界から異世界に入り込んで起こったかのように思い始めた。つまり、俺が駅の改札を抜けて階段を下ったときに異世界に紛れ込み、地下鉄がホームに進入してきたときに現実世界に戻ってきたのかもしれない。そういえば、彼女と交流しているとき、周りに人がいたかどうか全く自信がない。俺は本当に異世界に行って、そこの住人に名刺を渡してきたのかもしれない。
俺は本当にその異世界説を信じ始めていた。とはいえ、異世界を探しに行くほどは追い詰められてはいなかった。その時はまだ。
しかしそうした気分が乗らないときには、気分が乗らないことか続くものだ。高校時代の同級生で、先日久しぶりの同窓会で再会した豊島。高校時代から強引な奴で、まあ同業者みたいなものだから、同窓会後にも会おうとしつこく連絡が来ていた。彼に渡した俺の名刺が恨めしい…連絡が要らない奴からだけ連絡が来るわけだから、俺の名刺は呪われているのか。彼は俺の顧客にだけ興味があって、俺自身に対してはむしろマウンティングを取りたくて仕方がないようだ。連絡のほとんどをスルーしていたのだったが、それがどうも成り行きで、一回飲みに行かねばならないことになってしまった。俺の気分も察してほしいところだが、こうした鈍感さも彼が仕事の腕前は確かだという業界の評判を上げている理由なのかもしれないと冷静な部分の俺は考えた。
会うことが決まると、人づきあいが悪い俺もたいていは覚悟が決まって気にならなくなるものだ。ところが今回は違った。豊島と飲みに行くことが決まった後に、どうやら豊島には彼女ができたらしく、その彼女もつれていくと大変自慢げだ。それは俺にとって今最も聞きたくない話。豊島はまあ外面はいいから、女子はよく捕まるのだろう。俺がもう少し顔が良かったら、あの彼女も連絡をくれただろうか。考えれば考えるほど、気分の悪い日になってしまいそうだ。
それでも女を連れてくるなら行かないなどと言うのは、それこそ俺の沽券にかかわる。であれば、せめて俺の行きつけの店で会うことにしよう。そこならばせめてうまいものが食え、いい酒が飲める。少々揉めてもマスターが何とかしてくれるだろう。奴の行きつけの店に行って食い物についてまでいろいろと自慢話をされるのは、俺の心がすさんでない時にはそれほど嫌ではないが、今回ばかりは勘弁してほしい。
マジで、異世界を探しに行かねばならないと思い始めた。もしかするとあの女性は今も異世界のあのホームで出口を探しているのかも。思い返せばあの時に中目黒方面の電車は到着しかけていたように思うが、それが発車したかどうかはわからない。俺はあのスタンダールな女性を救いに行かねばならないのかもしれない。彼女は7つの過程のどこかにとらわれているのかもしれない。
そんな風にグダグダしているうちに、豊島との飲む日になった。俺の方も女性を連れてくるようにという彼の要望もあったが、俺は女友達に声をかけることすらしなかった。なぜなら、彼の魂胆は見え見えだからだ。相当自慢の彼女らしいので、きっと俺が女性を連れて行ったらその人を相当ディスるだろうから。そもそも、女性をモノのように比べることになる態度は、豊島のお相手の女性にも全く失礼だ。誰もディスれないような女友達もいないことはないし、ちょうどスペインから帰ってきているねじれの位置系の姉に声をかけてもよいが、俺が豊島と同じレベルに落ちるのもばかげている。要するに、俺だけ我慢すれば済むわけだから、誰も連れて行かないことにした。コラテラル・ダメージは最小限に。
店には俺が先についた。渋谷駅から徒歩5分、地下1階。階段を降りてすぐ、入口近くの俺の定位置であるカウンターは避けて、奥の四人掛けのテーブルに座る。経緯を話してあってすでに慰めモードのマスターと二人でまずはいつものベネズエラのラムで軽く乾杯し、俺はこれから起こるかもしれない嵐に耐えるべきか、嵐に対して潜水艦のように海に潜ってやり過ごすべきかなど、考えても仕方のない思考のスパイラルの海に浸かっていった…ラムはそれにぴったりだった。しばらく時間があるかと思ったが、約束の時間になる前に、入口のほうから豊島のやや高い声が聞こえてきた。もう酔っているんじゃないかと思えるような満面の笑顔で、こちらにやってくる。その後ろには背の高い女性が、気乗りしていないとわかってくれと主張する態度で歩いてくる。黒いトレンチコートに赤いマフラー。印象的な丸顔と、天パの黒髪。あの女性だ!店長にコートを預け、俺がヨーコちゃんと呼ぶソムリエさんに促され俺の方に大股で近づいてくる。
今日の彼女はごく薄い紫色のニット生地のワンピースの装いで、細い青いベルトが腰に巻かれている。スタンダールは俺を認識すると、瞬間的に目が大きく開かれひどく驚いた表情になり、秒で眉間にしわを寄せた険しい表情になった。その目は、俺をとらえて離さない。憮然とした表情。彼女は、浮かれている豊島のエスコートを完全に無視し、俺の真正面の椅子を引き、俺に正対するように座る。黒いタイツに包まれている脚を堂々と組み、テーブルにかぶさる形で俺に対して身を乗り出す。胸元には小さなターコイズの石が揺れる。視線が水平にぶつかる。その表情は憮然としたままでその目は瞬きが少ない。豊島は、そうした彼女の様子にほとんど気づいた様子がなく、空いている端の席に押し出される。
とはいえ、スタンダールはなんで俺に怒っているのだ?相変わらず…と言うほど彼女を知っているわけでは全くないが…表情豊かであるのはめまいがするほど小気味いい。俺は同時に、豊島の声が遠のき、グラスの縁を撫でる音だけが近くなったのに気づく。彼女の視線を中心に、店の輪郭がぼけていく。照明が一段だけ青く沈み、世界がゆがむのを感じた。そうか、彼女がいる場所が異世界に転移するのだ!
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