花守りの唄
@kagerouss
第1話
「絶対に散らない桜があるんです」
最初にその話を聞いたとき、私は「またありきたりな伝説か」と思った。
「桜が咲き続ける」
そんな話は、日本のあちこちにある。神木だの、亡霊が宿るだの、科学的に説明できない現象を「呪い」や「奇跡」と結びつけるのは、昔から人々の想像力が生み出してきた物語にすぎない。けれど、調べれば調べるほど、その村の桜は異質だった。
「どんな風が吹いても、一枚の花びらも落ちない」
「枯れないどころか、花の色が年々濃くなる」
そんな不自然な桜があるのは、山間にひっそりと佇む神埼村。地元の人間以外はほとんど訪れない、閉鎖的な集落だという。
新聞記者として、私はこれまでにも地方の伝承や奇妙な風習を取材してきた。大抵は誇張された昔話か、何かしらの風習が残っているだけだ。だけど、時折、本当に「何か」が潜んでいることもある。そう思ったら、確かめずにはいられなかった。
***
取材当日、私は車を走らせ、神埼村へと向かった。村の入り口には、古びた木製の看板が立っている。
「神埼村——花守りの里」
村へ入ると、驚くほど静かだった。まるで、ここだけ時間が止まっているみたいだ。田畑が広がり、家々はどれも古い。道を歩く人影もほとんどない。でも、そんな景色の中で、ひとつだけ異彩を放つものがあった。
それは、村の中央にそびえる一本の巨大な桜の木。満開の桜が、どこまでも広がっている。でも、その花の色を見た瞬間、私は息をのんだ。
血のように紅い。
普通の桜よりも、明らかに濃い色をしている。光の加減ではない。まるで、根元から何かを吸い上げているかのように、鮮やかで深い紅色だった。
「……これが、噂の桜?」
桜の木の根元には、小さな祠があった。供えられた線香が、まだ煙をくゆらせている。誰かが最近、手を合わせたのだろう。その祠の前に、ひとりの老人が座っていた。背を丸め、じっと桜を見上げている。私は軽く咳払いをして声をかけた。
「こんにちは、新聞記者の高瀬と申します。取材でこの桜についてお話を伺いたいのですが——」
すると、老人はゆっくりと顔を上げた。皺だらけの目元が、じっと私を見つめる。
「……あんた、外の人か?」
「はい。この桜が散らないという話を聞いて、記事にしたくて」
「やめときなされ」
老人の声は、驚くほど低かった。
「……え?」
「この桜にはな、人が眠っとるんじゃよ」
一瞬、意味が分からなかった。
「人が……眠っている?」
「そうじゃ。この桜の下には、昔から人が埋められてきたんじゃ」
背筋に冷たいものが走った。私は新聞記者だ。地方の伝説を調べていれば、「人柱」という言葉は何度も目にする。橋や城を建てる際に、人を生贄に捧げる風習があったのは歴史的に事実だ。けれど、桜の木の下に?
「その話、詳しく聞かせていただけませんか?」
すると、老人はじっと私を見つめ、静かにため息をついた。
「……話すのはかまわんが、後悔するかもしれんぞ」
そう言うと、彼はゆっくりと桜の木を見上げた。その目には、何かを畏れ、何かを思い出しているような、深い悲しみが宿っていた。満開の桜は、静かに風に揺れる。
でも、その花びらは、一枚も落ちることがなかった。老人の言葉が頭の中で反響していた。この桜の下には、昔から人が埋められてきたんじゃ。
私はそれが単なる昔話の一部だと思いたかった。
「それは……本当にあったことなんですか?」
私がそう尋ねると、老人は祠の前で手を合わせながら静かに頷いた。
「昔、この村では飢饉が続いてな。村人は生きるために、桜の木の根元に“捧げもの”をしたんじゃよ」
「捧げもの……?」
「そうじゃ。身寄りのない娘を選び、生きたまま埋めることで、豊作を願ったんじゃ」
老人は、それが当然のことのように語る。
「それ以来、この桜は枯れることなく、毎年満開になるようになった」
私は無意識に桜の枝を見上げた。紅い花が、まるで空を染めるように咲き誇っている。
「でも、そんなことが本当に……」
老人は苦々しげに笑った。
「本当にあったことかどうか、それを知るのは、桜の下に眠る者たちだけじゃろう」
私は背筋が冷たくなるのを感じた。取材のために、この村に泊まることになっていた。宿は村の外れにある小さな民宿で、夜は静かすぎるほどだった。でも、どうしても気になった。この桜は本当に何かを秘めているのか。夜、私はカメラを持って桜の木の下へ向かった。
***
月明かりの下で見る桜は、昼間とはまるで違う姿だった。やはり風が吹いても、花びらはひとつも落ちない。私はカメラを構え、幹にピントを合わせた。その時だった。
「……寒くないの?」
ふいに、背後から声がした。私は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、一人の女だった。白い着物を纏い、静かに桜を見上げている。
「……すみません、どなたですか?」
女は、ゆっくりと私を見た。目が合った瞬間、私は息を呑んだ。彼女の瞳は、どこまでも深く、まるで底の見えない水のようだった。
「この木の中で、まだ泣いているの」
彼女はそう言った。
「……え?」
「ここで眠る人たちが……まだ、泣いているの」
彼女は幹にそっと手を触れる。その瞬間、幹に刻まれた“何か”が動いたように見えた。思わずカメラを向け、私はシャッターを切った。
——カシャッ。
撮れた写真を確認しようとスマホの画面を開く。そして、私はそれを見て、背筋が凍った。
幹に、人の顔が浮かび上がっている。苦しそうに口を開け、助けを求めるような顔が、そこにあった。私は思わずカメラを落とし、後ずさる。
「……これは……?」
震える声で問いかけるが、女は何も答えず、ただ微笑んでいた。
「またね」
その言葉を最後に、女の姿はふっと消えた。私は、足元が崩れるような感覚に襲われた。
この村には、何かがある。桜の木の下で、誰かがまだ泣いている?
私は、宿に戻っても全く眠れなかった。カメラに映った桜の幹。そこには、助けを求めるように口を開いた人の顔があった。あれはただの木の模様なのか? それとも、本当に……?
いや、そんなはずはない。あの女が言った。
「この木の中で、まだ泣いているの」
それがどういう意味なのか、知りたい。私は翌朝、再び昨日の老人を訪ねた。
「……あんた、まだ帰らんのか?」
桜の前で手を合わせていた老人が、私を見るなり苦々しい顔をした。
「昨夜、この桜の木の下で……白い着物の女に会いました」
その言葉を聞いた瞬間、老人の表情が変わった。驚きではなく、怯えだった。
「……あんた、本当に見たんか?」
「ええ。彼女は、『この木の中で泣いている』と言いました」
老人は深くため息をつき、ゆっくりと桜を見上げた。
「……50年に一度、この桜の木には“生贄”が必要なんじゃ」
「生贄……?」
私は思わず息を呑んだ。
「そうじゃ。桜が枯れぬよう、新しい魂を迎えなければならん」
「……迎える」
「この村の桜はな、人の命と引き換えに咲くんじゃよ」
言い伝えじゃなかったのか…?本当に、この村では人柱の儀式が続いていたのだ。
「最後に“迎えられた”のは……いつですか?」
私は喉がひりつくのを感じながら尋ねる。老人は、ゆっくりと答えた。
「ちょうど…50年前じゃ」
頭の中で、昨夜の桜の光景がよみがえる。村の記録を調べた際、50年前にも「白い着物の女を見た」という証言があった。
「……もしかして、その“生贄”は、村の外から?」
老人は黙ったまま、桜の木を見つめる。それが、何よりの答えだった。
恐怖が体を這い上がる。私は震える手でスマホを取り出し、昨夜の写真をもう一度確認した。そして、私は見つけてしまった。
桜の幹に浮かび上がった顔が、ほんの少し私に似ていたことを。
その瞬間、背後から視線を感じた。振り返ると、村人たちが、無言でこちらを見つめていた。次の「迎えられる者」が、誰かを知っているかのように。喉がひりつくほど乾いていた。
桜の木の下で、村人たちが私をじっと見つめている。私は、そっとスマホを握りしめたまま、一歩だけ後ずさった。
「……この村の桜は、人の命と引き換えに咲く」
老人の言葉が頭の中で響いている。50年に一度、新たな「生贄」が必要になる。そして、その役目を果たすのは、村の外から来た人間。
もしかして、私は、もう選ばれているのではないか?
心臓がうるさいほど鳴っている。
逃げなければ。
私は、ぎこちない動きで村人たちに向かって微笑んだ。
「すみません、急用を思い出したので、そろそろ帰らせていただきますね」
足早に桜の木から離れようとする。
その時。
「……待たんか」
背後から、老人の静かな声がした。私は思わず足を止めた。
「この村の記録を調べたんじゃろ?」
背中にじっとした視線を感じる。
「ならば、もう気づいとるはずじゃ」
私は振り返ることができなかった。
だって、知ってしまったのだ。50年前に迎えられた「生贄」。
それは…私と同じ、新聞記者だった。
私は目を見開いたまま、スマホを操作した。村の歴史を調べたときに見つけた、50年前の新聞記事をもう一度表示する。
「神埼村の桜伝説を調査中の記者、取材を終えた翌日から行方不明に」
記事には、失踪した記者の名前が載っていた。
「高瀬 誠一」
私は息が止まるかと思った。高瀬。私と同じ姓。私は、ふと母の言葉を思い出した。
「お前の祖父はね、昔新聞記者をしていたのよ。取材中に行方不明になったらしいけど……」
まさか。私は、50年ぶりにこの村を訪れた「高瀬の血縁者」。私がここに来たことは、偶然なんかじゃなかった。
「——これは、もう決まっていることなんじゃよ」
老人の低い声が響く。次の生贄が、私だということが。私は、全身の毛が逆立つような恐怖に襲われた。目の前の桜の木が、ざわりと揺れた。風はないのに——何かが、木の中でうごめいている。私はその場から逃げるように、桜の根元へ駆け寄った。
確かめなければならない。この木の下に、何が埋まっているのかを。スマホのライトを点け、桜の根元の土を掘り返す。すると、すぐに木札が出てきた。
その木札には、くっきりと名前が刻まれている。
「今年の人柱」
そして、その下に
「高瀬 美月」
私は血の気が引いた。
「……なんで……?」
手が震える。だって、これは今掘り出したばかりのものだ。私の名前が、すでにここに刻まれていた。私は、最初から「迎えられる者」だったのだ。
ふと、風が吹いた。桜の木がざわざわと揺れ、空を染めるように紅い花びらが舞う。
私は桜の根元に膝をついていた。ざわり、と桜の枝が揺れた。今まで決して落ちなかったはずの紅い花びらが、ひとひら、ふたひらと舞い落ちる。
私はゆっくりと顔を上げた。そこには、白い着物の女が立っていた。夜風に揺れる長い黒髪。穏やかに微笑む唇。
そして、その顔は、私自身とそっくりだった。
「……私……?」
私は混乱しながら、その女を見つめた。彼女は静かに桜の幹に手を当てる。すると、幹に浮かんでいた無数の苦しげな顔が、ひとつひとつ消えていった。まるで、彼女がすべてを吸い込むかのように。
「あなたが、次の花守りよ」
女はそう言った。私は理解した。50年に一度、桜は「人柱」を求める。しかし、それは単なる犠牲ではなかった。桜の花を咲かせ続ける者——花守りとして、この村の歴史に囚われることを意味していた。
「……いや……私は……!」
私は後ずさろうとした。けれど、足が動かない。まるで、土の中に根が張ってしまったかのように、体が重くなっていく。桜の花が舞い散る中、白い着物の女がそっと手を伸ばしてきた。私は抵抗しようとした。でも、その手に触れた瞬間、すべてが、静かになった。
***
翌朝、村人たちは満開の桜を見上げながら、穏やかに微笑んでいた。
「今年も、よく咲いたのぉ」
「これで村は安泰じゃな」
紅く染まった桜の木の下に、私は立っていた。私は村人たちの顔を、ただぼんやりと眺める。誰も、私のことを気に留めない。まるで、最初からそこにいなかったかのように。私は静かに桜の幹に触れた。すると、木の奥から、たくさんの囁きが聞こえた。
「迎えられたのね」
「これで、また50年」
桜の花は決して散ることなく、次の時を待つ。私はそれを見守る存在になったのだ。
「……これで、いいの?」
そう呟いてみた。でも、誰も答えなかった。そして私は、微笑んだ。もう、抗うことはできない。だって私は、次の「花守り」だから。
***
数週間後。ある観光客が、神埼村の桜を写真に収めた。
「すごいな、この桜! 50年に一度、こんなに紅く染まるんだって」
そう言いながら、スマホの画面を確認する。
「……あれ?」
その観光客は、写真を拡大した。
桜の幹に、ひとりの女が立っている。白い着物を纏い、微笑んでこちらを見ている。
「え……誰?」
村人に尋ねたが、彼らは首を傾げるばかりだった。
「そんな人、この村にはおらんよ」
観光客はスマホの画面をじっと見つめた。すると、その女の顔が、じわりとこちらに向かってくるように見えた。
「……っ!」
スマホを落としそうになり、慌てて画面を閉じる。風が吹いた。桜の花びらが舞い上がる。その中で、ふと声がした気がした。
「また、50年後に。」
観光客は首を振り、苦笑した。
「気のせいか……」
そう呟いて、彼は村を後にした。桜は、今日も紅く咲き誇っている——。
花守りの唄 @kagerouss
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