人魚の肉
二ノ前はじめ@ninomaehajime
人魚の肉
病で
「あっしは、しきみと申します。しがない商人でして」
声からして、男なのだろう。天秤棒の両端に
ただその素顔は、
「これですかい。人さまにお見せできる顔じゃありませんで、どうかご勘弁を」
しきみ、と名乗った行商人は断りもなく草鞋を脱ぎ、木間へと上がりこんだ。ここしばらく天井の
「何だ、お前は。金目の物ならないぞ」
「盗人じゃありやせんよ。旦那に薬を売りに来たんでさあ」
市女笠の行商人は悪びれず、床に天秤棒を置いて
「薬だと。そんな
「旦那の病は不治でさあ。
「何だ、それは」
「人魚の肉でさあ。取って置きの珍品でして」
仰天した。取り出されたのは、明らかに人の腕だった。とても行李に収まる大きさではない。どういう仕組みか、被せ蓋の隙間から伸びてくる。行商人はその青黒い腕を引き出すと、無造作に床へと置いた。醜悪な代物に吐き気を
天に救いを求めた指の合間には、水かきが張られていた。
「この人魚は
芝居がかった仕草で、垂れ衣の隙間に指を差し入れる。とても信じる気にはならなかった。生き物の死骸を
「そのような
「信じるかどうかは旦那次第でさあ。煮るなり焼くなり好きにしてくだせえ」
市女笠の行商人は天秤棒を担ぎ、立ち上がった。喉から声を絞り出す。
「待て、何の嫌がらせだ。こんな
「まあまあ、そう
人の話もろくに聞かず、行商人は草鞋を履いた。木戸を開き、立ち去る前に濃緑色の合羽が振り返った。
「そうそう、お代なんですがね」
耳を疑った。不治の病に侵された者の病床に押しかけて、腐った腕を置いていく。その上、代金を要求するなど厚かましいにも程がある。
こちらの表情を見て取ったのか、面を覆う衣の下で笑う気配がした。
「大したことじゃありやせんよ。その肉を食ったなら、金輪際海には近づかないでくだせえ」
開け放たれた木戸から風が吹きこむ。虫の垂れ衣が靡いて、その素顔が垣間見えた。異様な面貌だった。顔面の中心から縦横に裂け目が走り、鼻と口らしい部位が見当たらない。
「何しろ、人魚というのは執念深いものでしてね」
市女笠の行商人が立ち去って、途方に暮れた。俺の傍らには人魚の腕と称した腐肉が寄り添っており、鼻が利かなくなっていた。
水かきが張られた腕が横たわる傍らで、見慣れた天井の梁を仰いだ。
日が傾き、天井の陰影が濃くなる。これまで孤独に生きてきた。誰にも看取られないまま一生を終える。何とも惨めなものだ。奇妙な片腕と
ああ、腹が減った。
起き上がる気力もないのに、空腹を覚えた。弱々しく口を歪めて自嘲する。この
人魚の肉が不老不死の妙薬だという言い伝えは知っている。ならば、酔狂に身を任せてみるのもいいだろう。
布団から這い出て、肘で折れ曲がった腕を掴んだ。紫色の血管が透けて見えた。脈打っている。これはまさか、生きているのか。
口が乾き、喉仏が動く。
食するには覚悟が必要だった。何しろ形は人の腕と大差ないのだ。ええい、ままよ。歯茎を剥き出しにし、その青黒い肌に歯を突き立てた。
空っぽだった胃は、その肉を欲した。気づけば、腕の一本を
結論から言えば、人魚の肉は本物だった。
翌日から体を
近隣の住人は俺が
人魚伝説は
考えてもわからないまま、年月は過ぎていった。やがて行きずりの女と所帯を持ち、裏長屋で暮らした。貧しい生活なれど、それなりに幸せだったと思う。記憶が不確かなのは、何十年も前のことだからだ。
俺は年を取らなかった。破れた障子紙が透ける長屋の一室で、女は病床に臥せっていた。その姿はかつての自分を
もう顔も
「あんた、人間じゃなかったんだねえ」
「違う、俺は」
「それでも、あたしは幸せだったよ」
そう言い残して、最初で最後の妻は息を引き取った。
女の死後、その地を離れた。土地の人間から怪しまれていたからだ。一つの場所に定住することはできなかった。死なず老いずの人間を受け入れられる安住の地などなかったのだ。
時代は
不老不死の身だというのに、人魚の祟りを恐れている。孤独に生きることを強いられて、なお死を忌避するのか。何と浅ましい。
それとも、死よりも恐ろしい結末があるというのか。
ときには水辺での生活を
長い歳月を生きて、あの警句を忘れかけていたのかもしれない。
不思議なものだ。死なないとはわかっていても、日々の
同じ漁師仲間が奇妙なものを見た。この湖沼に浮かぶ巨人の骨だという。沈没した船の
結局、その男は漁師を辞めてしまった。ただ、気になることを言っていた。鰻が脱出しようと
そうだ。男が目にしたという大きな残骸は、どこから流れ着いた。この小さな湖沼などではない。もっと広大な場所から来たはずだ。
背後で水音が跳ねた。振り返るよりも先に、冷たい片腕が首に絡みついてきた。どこか覚えのある、
青黒い女の顎が肩に乗っていた。真紅に染まった瞳が、俺の横顔を凝視している。濡れた髪が首筋に絡みついてきた。鰻筌を取り落とし、小舟の上に数匹の鰻が這い出てきた。
ああ、そうだ。この湖沼は海と繋がっている。鰻の稚魚は河川や湖で育ち、やがて産卵のために大海へと出る。どうしてそのことを失念していたのか。
そのまま姿勢を崩し、女とともに湖水へと落下した。大きな
「だから、言いましたのに」
その残念そうな声音が
人魚の肉 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime
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