「アクスタ」

ナカメグミ

「アクスタ」

 長いエスカレーター。前に並ぶ人、人、人。女性9割。男性は、母親に手を取られた男児か、友人同士と思われるグループ。全体の1割ほどか。

 この先に待つものは確実な天国。日常を離れた別世界。外に出た。外気が頬に刺さる。背中は興奮で既に汗ばんでいる。


        *  *  *


 小学校3年生のころ。人の前で食事をすることが怖くなった。私は不正咬合だった。俗に言う受け口。上下の歯がぶつかり、成長とともに下あごが目立ち始めた。

 給食を向かいの席で食べていた男子児童が、笑いながら言った。「プロレスラーの✕✕みたい」。明らかに不正咬合の、政治家に転身した有名プロレスラーの名だ。

 「みっともない」。母は小学校4年生のとき、私を矯正歯科に連れて行った。型を取ったマウスピースの矯正。就寝時には、頭にバンドのようなものをつけて、あごの成長を抑える装置をつけた。効果は限られていた。


        *  *  *


 顔の1つに、他者からの「みっともない」がインプットされると、自分の顔がどんどん嫌いになる。鏡を見る。あごに目が行く。嫌だ。

 中学生。太い眉毛のカットを始めた。必要な部分だけを見る。全体像は見ない。


 高校生。地下鉄とバスで通学した。地下鉄の中。向かいの座席の人が、自分の顔を見ていると感じる。リュックを床に置き、頭を下げる。目の前に人が立つ。さらに下を向く。首のうしろの筋が伸びて疲れる。

 バスに乗る。右側の座席は前方を向いて並ぶ。1つに座る。左側に並ぶ優先席は右向き。私の座席の方を見る。こちらを向く人の顔。咳ばらい。首を右に向けて窓の外を見る。首の右肩の筋肉が収縮する。


 まもなくだ。最初は他者の視線から逃げる一方だった首が、他者の存在を感じると、そちら側を向くようになった。見たくもないのに。首のコントロールが利かない。私の視線は他者に迷惑をかけているのではないか。

 地獄の始まりだった。


       *  *  *


 高校3年間は耐えた。進学する気力はなかった。

同年代が同年代に注ぐ視線は、制服を脱いだときにこそシビアだ。服装、髪型、メイク、アクセサリー。いわゆるトータルセンス。

 顔のコンプレックス。いうことをきかない首。これ以上は向き合えない。

バイト生活を選んだ。


 スーパーでの品出し作業。担当は青果や酒、インスタント食品などの一般部門だ。

 黒のスタッフジャンパーを着る。売り場の欠品気味の商品をチェックしてメモを取る。バックヤードで専門のカゴに商品を入れ、売り場に並べる。古いものは手前に、新しいものは奥。「ご苦労さま」。常連客がかけてくれる声にやり甲斐を感じる。


       *  *  *


 バイトに慣れたころ。人恋しくなった。バイト先は仕事の上だけの付き合い。日常生活と仕事の隙間を埋めるなにかが欲しい。

 眠れない深夜。自宅2階の自室のテレビ。美しい青年たちを見た。茶髪。金髪。ピアス。個性的な衣装。歌にラップにダンス。それが一転、トークではしゃぐ。浮き足立つ修学旅行生を覗き見る楽しさ。これだ。


 自室は、家族ですら入らせない私の聖域。こだわりのノートに、日記や詩を手書きするのが、帰宅後の私の楽しみだ。その卓上に彼らがいたら。


 通信販売で、メンバーのアクリルスタンドを買った。ペン立てなどを撤去した机の上を拭く。高さ11センチほどのステージ衣装を着たメンバーを、台座にそっとはめる。6人を並べた。こちらを見ている。

 微笑んだり、クールな変わらぬ視線。机の上に非日常の彩りが加わった。


       *   *   *


 セオリーに沿った推し活が始まった。ファンの先輩がいなくても、今はスマホが教えてくれる。

 ファンクラブに入会する。ライブに申し込む。抽選に当たったら、推しのうちわ、ペンライトにトートバッグ。年度ごとにデザインがちがうライブグッズを、通販で買う。当日に備えて、100均や文房具店で買ったペンや装飾品で、ファンサービスをしてもらうためのうちわを作る。


 スケジュール帳、パスケース。バイト代が身の回りのお守りに変わっていく快感。バッグにつけたキーホルダーを見て、バイト先の女性が「うちの子もファンなの」と声をかけてくれた。広がる小さな関係。コンプレックスと、他人の視線を意識する時間が減っていく。

 バイトをする。食事する。入浴する。最低限の家族との接触。そして2階の自室へ。MVにユーチュブ。ライブに備えてCDを聴く。歌詞を覚える。うちわの仕上げ。脳みそと手はフル稼働だ。

 入った先月分のバイト代で、ライブ当日に着る服を買った。


     *   *   *


 バイト先の女性の娘さんも、チケットを手に入れた。

 かつての国民的アイドルのファンも通った会場への道は、大行列だ。みんなおしゃべり。私もおしゃべり。だれも私の顔など見ない。ましてやあごなど。目的はステージ上の彼ら。会場内を自在に動き回る彼ら、のみ。

 

 熱狂の3時間半。3日間のライブの、最終日の最終公演だった。彼らは感極まって、汗まみれの涙声。私たちも泣く。ここまでの苦労を知っている。別の地でのライブも完走できますように。祈りながら仲間と帰途につく。


     *    *    *


 「みっともない」。

帰宅後、手洗いをしていた洗面所の鏡に母が映った。

「なに、そのカッコ」。

私の推しのメンバーカラーは青。この日のために青いワンピースを買った。

シルエットが美しく出るように、体重を計画的に落とした。

「普通は大学卒業して、就職してる年でしょ。夜遅くまで。なに考えてんだか」。

 風船のように膨らんだ幸福感が、一瞬の針で割れた。

普通の生活に心と体がついていけなくなったから、見つけたぎりぎりの非日常。

洗面所の水の音が響く。母は寝室に行った。


     *    *    *


 翌日の夜。母の寝室。いびきをかいて寝ている。

5年前。18歳になった高校3年生の夏。人の視線が耐え難くなってきた。バスの窓に心療内科の宣伝広告を見つけた。高校を卒業したい。1人で行った。医師は話を聞き、薬を処方してくれた。視線への意識を薄める抗不安薬と、寝つきの悪さを補う睡眠導入剤。卒業できた。

 睡眠導入剤。溶かして、ほろ酔いになった母の日本酒に入れた。


 ベッドの上で、母は右を向いて寝入っている。両手首を後ろに回す。それで縛った。両足首も。青いサテン地のサッシュベルト。

 ライブ当日のために買った青いワンピース。そのベルトをぎゅっと結ぶと、細くなったウエストを際立たせてくれた。

 でもライブグッズは毎年変わる。来年のライブで着る私の服も変わる。同じものは着ない。アイドルの衣装と同じ。バイトして、自分を奮い立たせる青い1着を、また買う。

 だからこのサッシュは、今日使う。真ん中で切ると、両手首と両足首を何重にも縛るのに、ほどよい。サテン地の鮮やかな青は手触りがいい。


 もう1つのものを手に取る。右向きの母の頭を持ち上げて、わずかに正面へ向ける。それは手で切れやすい。適度な長さに切って、まず両目をふさぐ。1重。2重。3重。目の上を通らせて頭に巻きつける。髪の毛がつく。本人が目覚めなければ構わない。優秀な日本製の布テープ。その粘着度はクラフトテープよりもはるかに強い。 4重、巻いた。みっともない固まりのできあがり。


 私は視線で苦しんだ。あんたは見えない苦しみを味わうがいい。

父は単身赴任中だ。睡眠導入剤は、睡眠薬とは持続時間がちがう。

まもなく意識が覚めるだろう。

「みっともない私、もう見えないよ」。

ベッドの上の、目がない母の顔をのぞきこんだ。耳元でつぶやいた。

「今のあんた、みっともないよ」。

親でも言って良いことと悪いことがある。

その無神経さを、思い知らせてあげたのです。

(了)



 




 





 




 

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「アクスタ」 ナカメグミ @megu1113

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