舌を継ぐ者たち
ソコニ
第1話 舌を継ぐ者たち
一
南北朝の世が終わろうとする頃、山中に隠れ住む一族があった。
その一族には、代々伝わる秘儀があった。当主が死ぬとき、次の当主がその舌を食べる。そうすることで、一族の「正しい言葉」が継承されるのだという。
舌を食べた者は、先代の記憶を受け継ぐ。先代が詠んだ短歌を、一字一句違わず暗唱できるようになる。先代が交わした約束を、すべて覚えている。舌は言葉の器であり、魂の在処である――一族はそう信じていた。
ある年の冬、当主に双子の息子が生まれた。
兄は生まれたときから美しい声で泣いた。成長するにつれ、その声はさらに澄んでいった。五歳で初めて短歌を詠んだとき、一族の者たちは息を呑んだ。
「月見れば 心の闇も 晴れにけり 光の中に 我が身ありけり」
父は涙を流して喜んだ。「これこそ、一族の正しい言葉だ」と。
一方、弟は言葉が遅かった。三歳になっても、まともに話せなかった。口を開けば、誰にも理解できない音が漏れるだけだった。母は心配し、父は顔を曇らせた。
七歳のとき、弟はようやく言葉を話し始めた。だがその言葉は、やはり誰にも理解できなかった。文法が崩れ、音が歪み、意味が滑る。聞く者は首を傾げ、やがて目を逸らした。
兄は弟を憐れんだ。夜、二人だけになると、兄は弟に短歌の作り方を教えた。
「言葉はな、心の形なんだ」
弟は黙って聞いていた。
「お前の言葉が変なのは、お前の心が歪んでいるからじゃない。ただ、舌の形が違うんだ」
弟は兄を見つめた。
「俺の舌をやろうか」
兄は笑って言った。
「そしたら、お前も綺麗な言葉が話せるようになる」
弟は何も言わなかった。ただ、涙を流した。
二
それから数日後、弟が兄の部屋を訪ねてきた。夜だった。月が出ていなかった。
「にいさま」
弟の声は、いつもよりはっきりしていた。
「舌を、ください」
兄は驚いた。冗談のつもりだったのに、弟は本気だった。
「だめだよ。そんなことしたら、俺が話せなくなる」
「だいじょうぶ」
弟は懐から小さな刃物を取り出した。父が儀式で使うものだった。刃には、古い血の跡が残っていた。
「ぼくの舌をあげる。だから、にいさまの舌をください」
兄は息を呑んだ。
「交換するの?」
「うん」
弟は頷いた。
「そしたら、ぼくはにいさまみたいに話せる。にいさまは、ぼくみたいに話す。でも、それでいい」
「どうして」
「にいさまは、どんな言葉でも美しくできるから」
弟の目には、確信があった。
「ぼくの言葉でも、にいさまなら美しくできる」
兄は震えた。恐怖ではない。何か別の感情だった。
そして、二人は舌を交換した。
まず、弟が自分の舌を切った。刃が肉を裂く音がした。小さく、湿った音。弟は呻き声も上げなかった。ただ、目を見開いていた。
血が流れた。床に落ちた。だが不思議なことに、血はすぐに乾いた。一族の血には、特別な力があった。
弟は切り取った舌を兄に差し出した。それは小さく、震えていた。まだ生きているかのように。
兄は受け取った。温かかった。柔らかかった。自分の舌より少し小さかった。
次に、兄が自分の舌を切った。
痛みは、すぐには来なかった。
刃が舌を断つ瞬間、兄は何かが壊れる音を聞いた。ぱきん、という乾いた音。骨ではない。もっと深い場所で、何かが割れた。
熱が、じわじわと広がった。
口の中が、鉄の味で満たされた。いや、これは血の味ではない。もっと甘く、もっと苦い。何か別の液体だった。
兄は気づいた。これは、言葉の味だと。
自分が今まで話してきた言葉、すべての味が、一度に口の中に溢れた。甘い言葉。苦い言葉。酸っぱい言葉。腐った言葉。
兄は嘔吐きそうになった。
だが、堪えた。
舌を切り取った。差し出した。
弟はそれを受け取り、自分の口に入れた。
兄も、弟の舌を口に入れた。
不思議なことに、舌はすぐに根づいた。傷口が塞がり、新しい舌が動き始めた。
痛みは消えた。
だが、口の中に違和感が残った。
これは、自分の舌ではない。
翌朝、兄が口を開いた。
出てきたのは、弟の言葉だった。
歪んだ音。崩れた文法。滑る意味。
父は顔色を変えた。母は泣いた。
兄は何度も口を開いたが、美しい言葉は出なかった。ただ、弟の言葉が溢れるだけだった。
一方、弟は美しく話した。短歌を詠んだ。一族の者たちは驚き、そして喜んだ。
「弟が治った」と。
誰も気づかなかった。兄と弟の舌が入れ替わっていることに。
いや、一人だけ気づいていた。
父だった。
三
父は何も言わなかった。ただ、兄を見る目が変わった。
兄は部屋に引きこもるようになった。誰とも話さなくなった。話せば、弟の言葉が出る。それが耐えられなかった。
口の中で、何かがおかしかった。
舌が、自分の意志とは別に動く。
言いたいことと、出てくる言葉が違う。
まるで、舌が自分を拒絶しているかのようだった。
弟は一族の中で輝いた。短歌の会で賞賛され、他家との交渉で重用された。誰もが「あの子は天才だ」と言った。
だが、弟の目は輝いていなかった。
ある夜、弟が兄の部屋を訪ねた。
「にいさま」
「……」
弟は兄の前に座った。何も言わなかった。ただ、口を開けた。
月明かりの中で、兄は見た。
弟の口の中に、二枚の舌があった。
一枚は赤く、もう一枚は青白かった。
二枚の舌が、互いに絡み合うように動いていた。
兄は息を呑んだ。
弟は口を閉じた。
何も言わなかった。
兄も、何も言わなかった。
ただ、すべてを理解した。
弟は兄の舌を奪ったのだ。自分の舌を残したまま。
兄の口にあるのは、弟の舌ではない。何か別のものだ。
いや、もしかしたら何もないのかもしれない。
言葉を失った者の、空虚な舌。
弟は立ち上がった。
そして、泣いた。
声を出さずに、泣いた。
兄は弟を抱きしめた。
「いいよ」
兄の口から、歪んだ言葉が出た。
「おまえが、いきていければ、それでいい」
弟は兄の胸で泣いた。
それから数年、時が流れた。
四
父が死んだ。
継承の儀式が行われることになった。次の当主は兄だった。長男だから。
一族の者たちが集まった。儀式の間に、父の遺体が安置されていた。
父の口が開かれた。舌が取り出された。
兄がその舌を受け取った。
それは冷たかった。硬かった。生きていた頃の舌とは、まるで別物だった。
一族の者たちが見守る中、兄は父の舌を口に入れた。
噛んだ。
最初の一噛みで、何かが弾けた。
苦い液体が口の中に広がった。
それは父の言葉だった。父が生涯で話したすべての言葉が、一度に流れ込んできた。
兄は飲み込もうとした。
だが、喉が拒絶した。
吐き出しそうになった。
それでも、飲み込んだ。
二噛み目。
舌の繊維が崩れた。ぬるりとした食感。
口の中で、言葉が醗酵し始めた。
父の言葉が、弟の言葉と混ざり、何か別のものに変わっていく。
三噛み目。
もう、何を噛んでいるのか分からなくなった。
ただ、口の中がぬめりで満たされていた。
飲み込んだ。
そして、兄は口を開いた。
出てきたのは、誰の言葉でもなかった。
音が崩れていた。意味が滑っていた。文法が存在しなかった。
一族の者たちは凍りついた。
「これは……」
誰かが呟いた。
「正しい言葉じゃない」
兄は鏡を見た。口を開けた。
舌が黒く染まっていた。
腐っていた。
いや、腐り始めていた。
口の中に、ぬめりがあった。言葉が醗酵している。それは父の言葉でも、自分の言葉でも、弟の言葉でもない。
「これは、誰の言葉だ?」
兄は声に出して尋ねた。だが出てきたのは、意味をなさない音だった。
舌の上で、何かが蠢いていた。
生き物のように。
その夜、父の日記が見つかった。
そこには、こう書かれていた。
「母が死んだとき、私は母の舌を食べた。
だが、母の舌は誰のものでもなかった。
母は生まれつき話せなかった。声帯がなかった。舌はあったが、それは言葉を紡いだことがなかった。
それでも、私は舌を食べた。一族の掟だから。
舌を飲み込んだとき、私の口の中で何かが崩れた。
それから、私の言葉は偽物になった。
いや、最初から偽物だったのかもしれない。
祖父の舌を食べた父も、そのまた父も、きっと皆、偽物の言葉を話していたのだろう。
この一族の『正しい言葉』など、最初から存在しなかった。
存在しないものを、代々受け継いできた。
それでも、誰も気づかなかった。いや、気づかないふりをしてきた。
私もそうだった。
だが、もう終わりにしよう。
次の当主が舌を食べたとき、すべてが明らかになるだろう。
この一族の言葉は、虚構だったと」
五
兄は日記を読み終えた。
一族の者たちも読んだ。
誰も言葉を発しなかった。
やがて、一人の老人が口を開いた。
「では、私たちが話している言葉は……」
「誰のものでもない」
兄が答えた。いや、答えようとした。だが口から出たのは、崩れた音だった。
それでも、皆には伝わった。
一族の者たちは、互いを見た。
自分たちが話している言葉は、本当に「正しい」のか。
それとも、何代も前から、誰かの歪んだ言葉を「正しい」と信じ込んできただけなのか。
答えは出なかった。
その夜、弟が兄を訪ねた。
「にいさま」
弟の声は、美しかった。兄の舌で話しているから。
弟は兄の前に座った。何も言わなかった。
ただ、口を開けた。
二枚の舌が見えた。
弟は一枚を噛み切った。
血が流れた。今度は、乾かなかった。床に溜まっていった。
弟はその舌を兄に差し出した。
それは震えていた。まだ生きているかのように。
兄は受け取らなかった。
弟は、それを床に置いた。
二人は黙って見つめ合った。
置かれた舌が、ゆっくりと動いた。
何かを言おうとしているかのように。
だが、声は出なかった。
やがて、それは動かなくなった。
弟は立ち上がった。
口から血を流したまま、出ていった。
兄は一人、残された。
床に置かれた舌を見つめた。
それが誰の舌なのか、もう分からなかった。
六
それから、一族は離散した。
誰も「正しい言葉」を話さなくなった。いや、何が正しいか、もう分からなくなった。
兄は山を下りた。弟も一緒だった。
二人は村で暮らした。畑を耕し、魚を釣り、静かに生きた。
たまに言葉を交わしたが、それは誰にも理解されなかった。
でも、二人には伝わった。
ある日、兄が短歌を詠んだ。
「くちのなか ことばはくさり かたちなし それでもわれは おまえとかたる」
誰にも美しく聞こえなかった。
だが、弟は泣いた。
「綺麗だ」と言った。
兄も泣いた。
二人の舌は、もう誰のものでもなかった。
だから、二人の言葉も、誰のものでもなかった。
それでよかった。
月が出た。
二人は月を見上げた。
何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
舌を持たない者同士のように。
いや、舌を持ちすぎた者同士のように。
風が吹いた。
山から、遠く、一族の誰かが詠む短歌が聞こえた気がした。
だが、それも幻だった。
もう、あの山には誰もいない。
正しい言葉を求めて、皆、散っていった。
兄と弟だけが残った。
そして、二人は笑った。
口の中で、舌が動いた。
それが誰の舌なのか、もう分からなかった。
でも、それでよかった。
それでよかったのだろうか。
兄の舌が、また黒く染まり始めた。
弟は気づいていなかった。
いや、気づいていて、見ないふりをしていた。
口の中で、言葉がまた醗酵し始めていた。
腐っていく。
ゆっくりと。
確実に。
それでも、二人は笑った。
言葉は、もともと誰のものでもなかったのだから。
いや、本当にそうだったのだろうか。
月だけが、答えを知っていた。
だが、月は何も語らなかった。
ただ、二人を照らしていた。
舌を失った者たちを。
舌を奪った者たちを。
そして、言葉を失った者たちを。
静かに。
冷たく。
永遠に。
(完)
舌を継ぐ者たち ソコニ @mi33x
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