後編
しかし、現実として待ち合わせの場所の映画館の前に志真が現れた。
たくさんの人が行き交う中から花梨のことを見つけて、軽く手を振って来る。花梨も手を振り返す。
夢じゃなくて、現実だ。ちゃんと、この現実に辿り着いた。
見ようとしていた映画は、誰だかもわからない殺人鬼に襲われる悲劇の結末を回避するために、何度も人生をやり直す話だ。何度も何度も、繰り返しても繰り返しても、同じ望まぬ結末にしか辿り着かない。
何だかその待ち合わせの瞬間が、そうやって何度も繰り返した末にようやくたどり着いた望んだ結末のようで、映画が始まるまでの時間にも、何度も反芻してしまう。
そんなことを知られたら、大袈裟だと笑われそうだけれども。
思っていたよりも映画に引き込まれ、二人とも真剣になって見入っていた。後でここを語り合いたい。そんなことも考えながら。
映画は、いよいよ殺人鬼の正体が明かされようと、足元が映される。危機感を煽る音楽や効果音と共に。
見ている花梨も緊張して思わず力んでしまっていると、急にスクリーンが真っ暗になった。
何事かと徐々に周りがさざ波が立つようにざわめき出すのを、まだ現実に戻り切らずにぼんやりと遠くの方で聞きながら、暗闇の中、黙って二人は顔を見合わせる。何があったのだろうと、同じように視線で会話を交わし、スタッフの説明を待っていた。
三分後くらいであっただろうか。
「すみません、映写機の故障で、すぐの復旧はできませんので、この回の上映はここで中止にさせていただきます。誠に申し訳ございませんでした」
灯りが付いて、ぱっと劇場が明るくなり、ぱらぱらと人々は座席から立ち上がり始めた。
二人は顔を合わせて、お互いに苦笑いをする。
「まさかまさか……」
「そういうことも……まあ……あるよね。今まさに、犯人が姿を現すところだったけど」
「気にはなる……」
一気に気が抜けてしまったと同時に、少しざわついている映画館の中でも、わりとちゃんと聞こえるほどはっきりと、花梨の胃は空腹を訴えるように唸った。
今日はなんとなく、小さな上手く行かないことが積み重なっている。そんな日なのだろうか。
ちょっと笑いたそうにしているのを、口元を手で隠して堪えている志真のお腹も、また小さく鳴った。
「あー……もう、なんか今日はいろいろカッコ悪いな、私。疲れてよれよれだし、お腹鳴るし」
「それは俺も一緒でしょ。時間も時間だし、お腹だって空くよ。いいんじゃないの。そういうカッコ悪いところ見せられるのって。……花梨が店に来る時、たまに見ててさ、ああ、今日は大変だったんだな、って思う日があって。疲れているなら、大概は早く帰って寝たいじゃん。それか、カッコつけたいから、よれよれのところ見せたくなくて、そういう日は来ないとか。それでも、コーヒー飲みに来てくれるのが嬉しくて」
「だって、ホッとするから。疲れた心が安心するんだよ」
「そう、そう思ってくれてるんだろうなって、だから嬉しいの。実際、前にもそう言ってくれたことあるでしょ」
ふと思い返してみれば、たしかに、思いを告げる前にそんなことを言って、自分の気持ちをわかってほしいと、ささやかな主張をしたことがある。少し気恥しくなって、俯きながら花梨は頷いた。
「それって、私が安心するものをもらっているっていうだけじゃなくて、私も志真が嬉しいことをあげられているっていうことかな。ただコーヒー飲んでるだけだけど」
「あの店が花梨にとってそういう場所で、なんだか上手く行かない時とか、カッコ悪いところ見せられるほど、心を許してくれてると思ってたんだけど。それって自分がしていることとして、最高に嬉しいことじゃん」
「そんなに都合のいいことがあっていいのか」
「それを言ったらさ、そもそもバレンタインのチョコレートをあんな渡し方して、ちゃんと俺の手に渡ったことって、都合がいいことじゃないの? ……都合のいいことも、案外起こってるじゃん」
返事をする代わりに、花梨のお腹がもう一度鳴った。とことん今日は格好がつかない。ふふっ、と、今度は遠慮なく志真は笑う。
なんだかもう敵わない。
気が付いたら花梨も笑っていた。
「お腹空いたね」
「そうだね。映画の代わりに、なんか食べに行こうか」
「うん」
映画館を出た時間には、大概の飲食店はラストオーダーが終わっている時間だったが、偶然通りかかったラーメン屋は、真夜中までやっている店だったので、そこに入ることにした。
たとえば、もっと洒落たレストランで食事というよりも、今日の二人にはぴったりだったようにも思う。飾り気のないシンプルな中華そばの味は、どこか懐かしい。
約束が現実になるまで、どこか霧の中にいるようなモヤモヤした不安があったし、カッコ悪い自分でも、なんだか今日は悪い日ではなかったし、広い意味ではこれも楽しいだろうと、今ここに立っている花梨は思っている。それはやっぱり、志真と一緒ならなんでもそうなのだろうと感じていた。何も証明なんてできない、ただの直感でしかなかったとしても。
ずっとあやふやだった二人の間にあるものが、やっと何かの形を成したような一つの安心。実際に今日志真に会うまで感じていた不確かな不安を覆すもの。それが確かにあったのだ。
帰り道、並んで歩きながら、志真はつぶやくように言った。
「……映画は一回無料券もらったし、また見に行けばいいよね」
「そうだね」
「これで……また約束できるし」
独り言のようにそう言ってから、しまったというように、志真は手で自分の口を塞いだ。そして、慌てて誤魔化すように、志真は空を指さす。
「あ……今日って満月なんじゃない?」
そう言われて、花梨も空を見上げた。志真の視線の先を辿っていくと、確かにそこにはまん丸い月が、粛々と、しかしどこか誇らしげに輝いている。
「本当だ」
満月がこんなにはっきり見えるほど空は晴れているし、本当に今日という日は、悪い日なはずはない。そう言ってくれているような月の光だ。不確かだったものが、確かなことだと保証してくれる。
「晴れててよかったし、月が綺麗だね……」
花梨はそう何げなく言っただけだった。
「え……」目を丸くして急に固まってしまった志真の耳が、ほんのり色づいて行く。「いや……あの……」
「何よ」
チラチラとこちらを見たと思ったら、また眼を逸らしたり、志真は少し気まずそうにしていた。
「考えすぎかもしれないけど……ほら、最近わりと知られてる、そういう意味かと思って」
「そういう意味って?」
「夏目漱石が言ったとかいう……」
「あ……」
ただ思ったことを言っただけだったが、別の意味を含ませることもできると、今頃気が付いてしまった。でも、今の言葉を『I love you.』と受け取られても、花梨としては何も問題はない。
それは初めて伝えることでももうないのだから。とっくに、その言葉を志真はその手に持っているのに。
「そう思ってもらって、私は全然かまわないけど。でも……わざわざそんな遠回しな伝え方しなくても、言いたい時、言うべき時にちゃんとそのまま言いますよ」
「そ……そうですか」
ただ今は、月の光を真っ直ぐ届けてくれる、晴れた空のように伝えたい。
「もう、理由なんていらないんだよ。逢いたい時に逢いたいって言えば、それでいいんだから。好きだって思った時に、愛しているって思った時に、そう言えばいいんだから」
志真は一瞬足を止めたが、微笑んでからまた歩き始める。
「うん、そうする」
どちらからともなく、手を伸ばして相手の手を取る。指を絡ませて、離れないように。
「きっとさ、十年とか二十年後くらいに、初めて二人で出かけた時は、なんかちょっと締まらない感じだったよねって、今日のこと笑って話してるかもね。満月だったことも、きっと覚えているよ」
「それでさ、また、今日も月が綺麗ですね、とか言ってるの」
二人の笑い声が、月の輝く夜空に響く。
そんな想像は全て絵空事で、現実になんかなるわけない。自分ではどうにもならないことが山ほどある現実は、そんなに上手くはいかない。そんなことを訳知り顔で言う自分の中の自分を、花梨は蹴とばした。
そうして予感がする。五十年後も、この手を離していないと。自分の意思だけではどうにもならない偶然は、きっとそう働くと。
その答えを知っている五十年後の自分は、その予感は間違ってなかったよと言うはずだ。
駅まで手をつないで歩く道は、絵空事のような現実の優しい月あかりの道。
月が綺麗な夜だから(花梨と志真⑦) 胡桃ゆず @yuzu_kurumi
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