前編
志真のカフェにわざと忘れて行った、バレンタインデーのチョコレート。
あの日から、相手の気持ちはお互いその手に握りしめているようで、まだ二人の距離は微妙で、連絡ひとつするにもどこかにお互い遠慮があった。
カフェの店員と客なのだから、仕方ない。急に態度を変えていきなり距離を縮めるということも、なかなかできないものだ。ただ、花梨にとってのあの店のコーヒー、いや、志真が淹れるコーヒーの意味はどんどん深くなっていく。
もっと特別で、ほっと安心できるものに。
なんだか話をするのにも少し緊張してしまうのも、ふわりと漂う香ばしい香りのコーヒーが解いてくれた。だんだんと、それが志真の香りなのだと、自分の中に馴染んで行くのを、店を訪れる度に感じていた。
志真の中では何か今までと変わったことがあるのだろうかと、ふと想像してみることもあるが、聞く勇気はない。自分がそういうものを彼に与えられているかというと、甚だ疑問であったからだ。けれど、何も変わっていないということはないだろうと、些細な会話の空気から、接し方から感じないわけではない。何がそうさせているのかはわからないが。
カメの歩みでも、一歩ずつゆっくり距離は近づいているだろう、そんな気はするが。
それでも、約束なんてしたのは初めてのことで、前日の夜になっても、本当のことかと、花梨は少し現実を信じられずにいる。
偶然に見たい映画が一緒だった。それならば、一人より二人で。偶然にお互いそう思っただけ。いい口実が、そこに転がってただけ。
それで何かを期待して、口にするのかしないのか、そこで変わる現実もあっただろうが、意思とは別に、予定が合わないなどの偶然が絡んで、駄目になることも大いにあり得た。何せ、カレンダー通りの働き方の花梨と、カフェ勤務なので土日や祝日は割と仕事が入っている志真だ。誰でもそうであるように、二人にだって噛み合わないところはいくつもある。
そこで、平日のレイトショーに行くという落としどころを何とか見つけることになったのは、阻む偶然を二人ともが許したくなかったから。
ベッドの中に入って目を閉じても、眠れる気がしなかった。このまま眠って起きたら明日が来るなんて、本当のことだろうか。
眠ろうと意識すればするほど目が冴えて来るのは、子供の頃の遠足の前みたいではないか。いや、でも、ちょっとああいった子供の頃の感覚とはまた違う。なにか、この約束に現実感がない不安が、どこかに渦巻いている。
映画を見たって、内容がちゃんと頭にはいる自信がなくなってきた。
「でも、二人で一緒に出掛けるなんて……初めてだもんな」
気が付けば、もうとっくに冬は過ぎ去り、眠る前も寒くはなくなるどころか、そろそろ蒸し暑さが迫ってきている。バレンタインからそんなに月日は過ぎ去っていた。
じわじわと体温も上がっていく感覚に囚われて、変に頭だけは冴えたまま眠りは浅い夜は明けて行く。
約束のその日の朝。
自分のコントロールを離れてしまったように、ぐるぐる勝手に回っていく頭をなんとか押さえながら、出かける支度をしていると、スマートフォンに志真からのメッセージが来た。
おはよう。なんかあんまり眠れなかった。子供じゃないんだからって、自分でも思うけど。
メッセージを見た瞬間に、花梨は思わず笑ってしまった。志真も同じだったのだ。
おはよう。私も同じだよ。でも、楽しみ過ぎて、っていうより、なんだか今日が信じられなくて、脳が変に働いちゃったみたいで眠れなかった。
自分でも何を言っているのかと、文章を送信してから少し恥ずかしくなったが、意外にも志真も同意するところがあるような返事が来る。
なんだそれ(笑)
大丈夫だよ。確かに約束ってなにも形がないものだし、保証も何もないからね。俺たちはちょっとのんびりし過ぎてた分、映画一本一緒に見に行くっていう、ほんとうならなんでもないことも、信じられない大ごとみたいだけどさ。なんとなくきっかけを捜しているうちに、時間だけが過ぎて行ったからな。現実感がないっていうのもわからないでもない。
うん、と、返事を送信する前に、花梨は掌の小さな画面に向かって頷いた。
ただ、どこかで思ってしまっているのだ。どこか不確かで曖昧にも感じる二人のこの状況は、自分自身に囁きかける。素敵なことというのは、全て絵空事で、現実にはあり得ないのだと。だから、何かの一瞬で、目が覚めたようにぱっと霧散してしまうことを恐れているのだ。
そういう気持ちが、楽しみと半分ずつ自分の中にある。
まったく同じ気持ちではないとしても、花梨が言わんとしていることも、志真はなんとなくでもわかってくれた。そこから踏み出すのに時間がかかることもあれば、こうしてちょっとの会話でわかり合えることもある。
近いのか遠いのか、よくわからない。でも、なんとなくくすぐったい気持ちになって、また今日の夜という未来に想いを馳せた。
何か返事を送ろうと思っている間に、志真の方からまたメッセージが届く。
じゃあ、また夜にね。一日頑張ろう。
花梨は、『ファイトー!』と文字の書かれたウサギのイラストのスタンプを送信して、ふと部屋の壁にある時計を見ると、もう出掛けなければいけない時間になっていた。
「いかん!」
急にバタバタと現実に戻されてしまう。
まずは浮かれず、今日一日きっちり仕事をこなそう。
そう気合を入れれば、神様はその期待に応えるのだろうか。なぜか今日はいつも以上にこなさなければならない仕事の量が多かった。何時に仕事を上がれるのか、見当をつけるのも難しくなるくらいに。
すみません、気合の入れ過ぎもよくありません。
心の中でそう唱えながらも、それでも、映画は二十一時過ぎの回だから、心配はないだろうと自分に言い聞かせていた。いつも以上に全てのことを素早くこなすように動いて行けばきっと大丈夫。
偶然に邪魔されて形のない約束が消え、今日がただの疲れた日で終わらないように。
その甲斐もあって、十九時半にはなんとか仕事は片付いて、退勤前に寄ったトイレの鏡に映った自分の姿がふと目に入る。
昨夜はよく眠れなかったうえに、一日なかなかにハードだったので、顔に若干の疲れが出ているし、化粧もよれている。
これから大好きな人と出かけるのだから、もっとしゃんとした、綺麗な自分でいたいのに。
小さくため息を落として、気を取り直すために軽くぺちぺちと自分の頬を叩く。まだ時間はあるから、せめて化粧は直そうと鞄の中からポーチを取り出そうとした。
だが、手は虚しく鞄の中を探り続けるばかりだった。
「え……」
ない。どんなに探しても、化粧用のポーチがない。何で今日に限って忘れて来るのだろう。朝は出かける間際がけっこうバタバタと慌てていたことを思い出す。
いろんな意味で、余裕がないのか。
精神的に追いつめられるという意味だけが、余裕がなくなる理由にはならない。どこか夢見心地な浮つくことを押さえられないこともまた、余裕を奪って行く。
何もかも完璧な日にしたいだなんて思わないし、別に今日が特別な日というわけでもないのだろう。こういうふうに二人で出かけることが、当たり前になるために踏み出した日というだけであって。
よく考えれば、普段からこういう仕事がきつかった日ほど、ご褒美のように志真のコーヒーを欲して、わりとよれよれのままカフェに行っていたではないか。バレンタインデーにチョコレートを渡すその前から、そうだった。そういう姿なら、志真は見慣れているはずだから、今更カッコつけることもない。
でも今日は、最初の一歩なのに。
仕方なくとぼとぼと会社を出て、とりあえず仕事が終わった旨を志真に連絡した。二十時を過ぎた頃に返事が来て、志真もまた退勤したという。映画館は志真の職場からそう遠くはないところなので、二人とも十分間に合う。
それに少しホッとした。
それでも、心の中にそわそわするような不安は消えない。何でこんな気持ちになるのだろう。
大人になっていく過程で、現実は思い通りにならず、そんなに都合よくはいかないと刷り込まれてしまったからか、ただ本当に、お互いの気持ちをちゃんとその手に持っていても、先へ踏み込めない二人だったからか。
届いているようで、届いていないような。そんな掴めない感覚があるからこそ、今日の約束も、どこかふわふわしたものに感じてしまうのか。
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