偽書目録 ―あなたの名前が最後に記される―
ソコニ
第1話 偽書目録
目録を書き始めたのは、火曜の夜だった。
書庫の机。万年筆。濃紺のインク。古い帳面から破り取った紙。
最初に記したのは『夜を数える方法』。著者・立花透。一九七三年刊。男が呼吸で夜の長さを測る話。三十年目、夜が一回分短くなっていることに——
筆が止まった。
なぜこんなものを書いている?
問いに答えず、二冊目を記した。
三日後、若い女が来た。
「『夜を数える方法』、ありませんか」
万年筆が転がった。
「図書館の廃棄リストで見て。呼吸で夜を測る男の話。三十年目に夜が一回短くなって——確かに読んだんです。内容も覚えてる。でも、どこを探しても見つからなくて」
彼女は困惑していた。疑ってはいなかった。
「その本は、ない」
「でも読んだんです」
彼女は繰り返した。私は何も言わなかった。
女が帰った後、目録を開いた。『夜を数える方法』の項。文字は消えていなかった。文字は、そこにあった。
三日後、老人が同じ本を尋ねた。学生時代に読んだという。感想まで述べた。梗概と完全に一致していた。
一週間後、教授が来た。『鏡の向こうの文法』を探しているという。
目録の三冊目だった。私が昨夜、記したばかりの——
「第三章の鏡像文字の統語論的分析が素晴らしくてね」
私は目録を確認した。第三章については何も書いていない。
だが教授の中では、確かに存在していた。
夜、四冊目を記した。五冊目。六冊目。手が止まらなかった。いや、止められなかった。万年筆が紙の上を滑る。インクが文字を形成する。私の意志は、どこにもなかった。
客が増えた。全員が架空の本を探していた。全員が読んだ記憶を持っていた。
そして、手紙が届いた。
古書市場から。『夜を数える方法』の現物が発見されたという。添付された写真。古びた表紙。タイトル。著者名。すべて目録の通りだった。
翌日、市場に行った。
本は、あった。
手に取る。重さがある。ページをめくる。活字が並んでいる。目録の梗概通りの内容。だが、文章は私のものではない。印刷されている。
奥付。一九七三年、東都出版社刊。
「どこから?」
「さあ、遺品整理の現場から。珍しいでしょう」
本を買い取った。
書庫で読んだ。最初のページから。滑らかな文章。細密な描写。梗概に記した以上の情報。主人公の幼少期。夜を数え始めた理由。三十年目の真実——男は老いていた。呼吸が速くなっていた。測定していたのは夜ではなく、自分自身の時間だった。
本を閉じた。
閉じられなかった。
ページが開いたまま固定されている。紙が指を避ける。まるで意志を持っているかのように。
力を込めて閉じた。本が床に落ちた。開いたまま。
拾おうとして、手が震えていることに気づいた。
その夜、目録は勝手に書かれ始めた。私の手は万年筆を持っているが、動かしているのは私ではなかった。七冊目。八冊目。九冊目。書名が浮かび、著者が生まれ、内容が流れ出る。
『誰も開かなかった辞典』。著者不明。一九六〇年刊。辞典が定義を変え続ける。開くたびに言葉の意味が異なる。最後に、開いた者は言葉を失う——
翌朝、女子高生が来た。
「『誰も開かなかった辞典』、知ってますか。祖母の家で見たような」
彼女は泣いていた。
「祖母はその本を開いてから、だんだん喋らなくなって。最後は一言も。何を聞いても、黙ったまま」
私は目録を見た。『誰も開かなかった辞典』の項。文字が、動いていた。
動いていた。
一文字ずつ、位置が変わっていく。書名が変容する。著者名が入れ替わる。内容が書き換わる。
ページを閉じた。開いた。文字は元に戻っていた。
いや、微妙に違っていた。句読点の位置が。一文字だけ、違う漢字に——
客が増え続けた。だが、彼らが探す本は変わっていた。
「自分について書かれた本があるはずなんです」
「私の名前が載っている本を」
「私の人生が、どこかに記録されているような」
私は何も答えなかった。目録を見せることはできなかった。
ある日、中年男が来た。
「あなたが書いている目録、見せてください」
私は後ずさった。
「何の——」
「とぼけないで。あなたが毎晩、書庫で目録を書いている。私は知っています」
男は微笑んだ。
「なぜなら、私もその目録に記されているから。三十七冊目。『消えた男の履歴書』。著者は私、田所健二。内容は私の人生」
男はカウンターに手をついた。その手が半透明だった。
「教えてください。なぜ私を書いたんですか」
男の輪郭が揺らいでいた。
「私は実在していたんでしょうか。それとも、あなたが書くまで——」
男は消えた。
声も。存在も。
カウンターに手形だけが残った。すぐに、それも消えた。
私は書庫に走った。目録を開く。三十七冊目。『消えた男の履歴書』。確かにある。
だが、私は書いた記憶がない。
いや、正確には——記憶があるのか、ないのか、もう分からなくなっていた。
その夜、目録を焼こうとした。
マッチを擦る。目録に火を近づける。
燃えなかった。
炎が目録を避ける。火が、紙に触れない。物理法則が捻じ曲がっている。
目録を床に投げた。目録は空中で止まり、ゆっくりと机の上に戻った。
開いた。最後のページが。
そこには、何も書かれていないはずだった。
だが、文字があった。私の筆跡ではない。
書名:『偽書目録』
著者:不明
出版年:未定
内容梗概:
ある古書店主が架空の本を記録する目録を作成する。記された本は読者の記憶として生成され、物理的に現実化する。店主は目録を書き続けるが、ある日、目録の最後のページに自分が書いた覚えのない記述を発見する。それは、この目録自体についての記録だった。店主は気づく。自分が書いているのは目録ではなく——
文章が途切れていた。
私は万年筆を取った。続きを書こうとした。
手が動かない。
いや、動いているのだが、私の意志と無関係に動いている。万年筆が紙に触れる。文字が書かれる。
——世界を書き換える装置だったことに。
私ではない。私が書いたのではない。
では、誰が?
追記の文字が浮かび上がってきた。
追記:本書を読んだ者は、自分自身が架空の存在であることを疑い始める。疑念は消えない。消せない。なぜなら、証明する方法がないから。
私は目録を閉じようとした。閉じられなかった。ページが私の指を押し返す。
立ち上がった。椅子が倒れた。音が、しなかった。
音が、消えている。
店の外に出た。夜の街。街灯。人影。すべてが静止していた。風が吹いていない。音がない。時間が止まっている。
いや、止まっているのは私だ。
私が、世界から切り離されている。
書庫に戻った。目録は机の上にあった。開いたまま。
新しい文字が浮かび上がっていた。
書名:『古書店主の最後の日』
著者:あなた
内容梗概:
心臓が止まった。
違う。
心臓は動いている。だが、それは私の意志ではない。誰かが、動かしている。
誰が私を書いている?
目録のページが勝手にめくれた。最初のページに戻る。
『夜を数える方法』の項。
だが、書かれていたのは別の内容だった。
書名:『夜を数える方法』
著者:立花透
内容梗概:ある古書店主が目録を書く。彼は気づかない。自分もまた、誰かの目録に記されていることに——
私は目録を持って店を出た。
街は動き始めていた。人々が歩いている。彼らは私を見ない。私が透明になったかのように。
古書市場に行った。
入口の台に、一冊の本があった。
『偽書目録』
表紙に私の名前はなかった。「著者不明」と書かれていた。
手に取る。重さがある。ページをめくる。
そこには、今、私が生きている瞬間が書かれていた。
古書市場に向かう私。本を手に取る私。ページをめくる私。
次のページには——
次のページを読む私。
その次のページには——
次のページを読む私。
永遠に続く入れ子構造。
最後のページに到達した。
そこには、一行だけ。
この本を読んでいるあなたの名前:
その下に、空白があった。
空白が、埋まっていく。
文字が浮かび上がる。
一文字。
また一文字。
私は本を閉じようとした。
閉じられなかった。
文字が完成していく。
名前が形成される。
それは——
私の名前ではなかった。
あなたの名前だった。
本を読んでいる、あなたの。
私は本を床に落とした。本は消えた。空中で、粒子のように分解されて。
だが、文字は残った。
空中に浮かんだまま。
あなたの名前が。
私は書庫に戻った。目録はまだ机の上にあった。
最後のページを開く。
追記が増えていた。
追記:この目録を閉じることができるのは、自分が架空であることを受け入れた者だけである。だが、受け入れた瞬間、その者は消える。消えることで、初めて実在する。
私は万年筆を取った。
目録に、自分の名前を書いた。
書名:『古書店主』
著者:私
内容梗概:
ある男が古書店を営んでいる。ある日、彼は目録を書き始める。目録に記された本は現実化する。やがて彼は気づく。自分自身も、誰かの目録に記された存在だったことに。彼は自分の名前を目録に書く。書き終えた瞬間——
文章が途切れた。
続きを書こうとした。
手が動かない。
いや、手が、ない。
見下ろす。身体が薄くなっている。輪郭が曖昧になっている。
私は消えていく。
だが、恐怖はなかった。
ただ、理解があった。
私は最初から存在していなかった。誰かが書いた、目録の中の一項目だった。
店の扉が開いた。鈴が鳴った。
客が入ってくる。
若い男だった。彼は目録に気づき、近づいた。
「これは?」
私は——いや、私の声が答えた。
「目録です」
男は目録を手に取り、ページをめくり始めた。
彼の表情が変わる。
「僕の名前がある」
彼は最後のページを指差した。
「ここに、僕の名前が」
私はもう答えられなかった。声が出ない。身体がない。
男は目録を閉じた。
「これで、僕は消えるんですか」
沈黙。
「でも、もういいです。実在していようと、架空であろうと、今、僕はここにいる」
男は微笑み、目録をカウンターに置き、店を出た。
扉の鈴が鳴る。
彼の姿は朝の光の中に溶けた。
私も、溶けた。
だが、目録は残った。
カウンターの上に。
開いたまま。
最後のページには、新しい名前が浮かび上がっていた。
また別の名前。
そして、また。
目録は終わらない。
次の客を待ちながら。
次の名前を記すために。
あなたの名前を。
今、この瞬間、ページをめくっている、あなたの。
目録は閉じられることがない。
なぜなら、あなたがまだ読んでいるから。
あなたが読み続ける限り、目録は存在する。
あなたが存在する限り、目録は書き続けられる。
では、問う。
あなたは実在しているのか?
それとも、誰かの目録に記された、架空の読者なのか?
証明できるか?
できない。
なぜなら、証明しようとした瞬間、あなたは疑い始めるから。
疑念は消えない。
この文章を読んだ後も。
明日も。
来年も。
ふとした瞬間、あなたは思い出す。
自分の名前が、どこかの目録に記されているかもしれないことを。
そして、その目録を書いているのは——
私かもしれない。
あるいは、あなた自身かもしれない。
(終わらない)
【書庫に残された走り書き】
最後のページを開く者へ。
あなたがこれを読んでいるということは、私はもう消えている。
だが、恐れることはない。
消えることで、私は初めて実在した。
あなたも同じだ。
この目録に名前を記せ。
そして、消えろ。
消えることで、存在しろ。
——古書店主の最後の言葉より
偽書目録 ―あなたの名前が最後に記される― ソコニ @mi33x
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます