第2話
授業中、僕は流れる雲を眺めていた。陽はそこそこの高さで青さを引き立たせる。千切れて遠くからやってくる雲に身を任せなにか思い出せないかという算段。けど、思い出せないのがかえって奇妙に感じられた。
記憶を探るよりもどうして神無月は僕のことを知っているのか、それを考える方が近道だろう。どこかで会っていたにしても名前を知っている程の関係。でも僕にはまったく記憶はない。さらに彼女は天才ピアニストらしいじゃないか、だったら覚えていてもおかしくはないんじゃないだろうか。でも何も覚えてないから結局はダメだ。
そんなことの堂々巡り、循環する思考のなか一つの考えが浮かんだ。神無月は人違いをしているのだ、これに気付いてしまえば先程のやり取りの謎が解ける。
誰にだって勘違いはあるものだ。なにより彼女は僕と同じ名前の人に会いに転校をして来たと言っていたが、その人物を確認していない訳がない。それを伝えてこの件に決着をつけよう。
「神無月さんまだ帰ってきてないね」
岡崎も僕と同じように渋い顔をする。
「転校初日になにしてんだかなってお前、あいつのことなにか思い出したか?」
「いいや。やっぱり記憶にないね」
「そっか。ただな、昨日もいったけど俺はあいつとコンクールで直接会ったこともあるし話したこともある。そしてあいつの演奏にかける思いも十分に分かってるつもりだ。まあ、あいつからすれば俺なんて何も考えてないようなもんだろう。だが、あいつの誠実さは確かだ。それだけは覚えておいてくれ」
少し真面目な空気になったのが恥ずかしいのか、鼻を鳴らしそっぽを向く。
誠実。
それは僕がなくしたもの。取り返せないもの。だから僕は彼女にできるだけきちんと向き合おうと心に決めた。
「昼はどうする?」
「今日はいいよ、神無月さんを探してくる」
「ああ。分かった」
僕はそれきり、神無月という人について考えた。
それから彼女はお昼になっても戻って来なかった、だから僕は探しに向かう。でも転校初日にこの学校で身を隠せる最適な場所が分かるのか。しかも誰一人教師は探そうともしない、天才ピアニストというよりも不思議ちゃんの方が適当だ。
僕は教師も知らないこの学校の秘密を知っている、それでなら彼女も見つかるかもしれなかった。目的地に向け歩く、この廊下は昼休みでも誰も通らない。けどこの廊下には僕以外もう一つ音があった、それは第二音楽から流れていた。この音楽室は旧校舎つまり僕達の校舎の最上階に位置しているが、今は新校舎の音楽室を使っているはず。きっとどこかの部活なのだろう、漏れる音を無視し屋上へと繋がる階段を目指した。
この屋上の扉は業者か教師が締め忘れたんだろう。少し前に興味本位でノブを捻ってみたら、なんとびっくり開いたのだ。それ以降僕はこの旧校舎の屋上に度々足を踏み入れる。もちろんバレないように。屋上の日陰で涼む、これが非日常的でとても落ち着く。この学校が山の上にあることもあって風が吹けば、かなり気持ちいい。今日は陽が暑すぎも寒すぎもない丁度いい日、だから少し堪能して神無月を探そう。
僕は腰を下ろし、瞼を閉じ風を感じる。風の強さは心地よく、春の最後に味わえたことを幸福に思う。
――ああ音だ。流れる音色。刻まれたピアノの響き。
僕はようやく思い出す。この音は第二音楽室から流れている音だ。廊下はきちんと閉じられていたけど窓は開けっぱなしにしているんだろう。この自然と音楽に包まれ僕はだんだん意識が朦朧としてくる。
流れていく空気と音楽と意識。それらが一つとなり世界と共鳴し、柔らかな陽射しが僕を溶かす。その只中である想いが、そっと降り注ぐのが分かった。
あの時も旋律が僕を導いてくれた。今より、そして僕の過ちよりもずっと前にこの思い出は仕舞われていた。錆びついた蝶番がきいきいと音を立てる。
――あなたは誰?
僕を見る同じくらいの背丈の女の子、片方だけが開かれた窓に手をかけ開け放つ。なにを言おうか迷ったけど口は自然に動いていた。
「綺麗だね」
なにせ音色に誘われるようにしてこの屋敷に入ったんだ。これ以上の言葉を僕は持ち合わせていない。
「……なによ。こんなのがいいのっ!?」
少女はぷりぷりと怒るけど、どこか満足気な態度を取っている。
「もっといい音を聴かせてあげるわよ、そこで聴いてなさいね」
「君が弾いてたの?」
「っそうよ!」
眼の前の少女が弾いていたなんて、僕はまったく想像してなかった。僕は屈託なくこの子に尊敬の念を抱く。
――その少女は再び旋律を奏で始めた。
音楽を知らない僕でもさっきとは違うことが分かった。整えられていたものが崩れる、けれどそれは崩壊とは異なっていて自由さを手にしていた。リズムがステップを踏むように、踊る。彼女の元気さ、爛漫さ、そういったものが詰め込まれているように感じる。
「どうかしら」
「とっても上手だね。綺麗な音だったよ」
「ふふ、そうよね。もっと聴かせてあげるわ」
彼女の紡ぐ旋律は僕を捕まえてしまった。それからは満足、というより屋敷の人に見つかって僕は追い出された。彼女はなにかいいたげな様子で帰る僕を見る。その日の思い出はここで途切れた――。
溶けていた意識が集まり、音楽も、風もとっくに去ってしまった。
「っんん…ふぁあ」
判然としない頭のまま、周りの様子を伺う。青に赤が差し空間を思い出す。僕は寝ていて、何をしていたのか。そう、神無月を探す予定だ。
けど今は陽が沈みかけている、そこでようやく現状を理解した。どうやらあのまま眠りこけて、授業をサボった挙げ句もう放課後といった頃合い。誠実に向かい合うといった気概はどこへいったのか。やっぱり気分が沈んでいく。
彼女は教室へ戻っているだろうか、期待を胸に向かう他ない。でもなぜだか会えるような、確証のない気持ちが心を埋め尽くす。
僕の勘は正しかった。教室へ戻ると目的の人物の他に誰もいない。戸口に立つ僕に背を向けて一つの席を眺めていた。
「神無月さん」
振り返る彼女。こちらに気付くと少し驚いた表情を浮かべる。
「まだいたんだ」
「うん、ごめんね。待たせたよね」
「いいえ、気にすることはないわ」
噛み合わない歯車、ぎりぎりと鳴り響く不快な音。だけどそれはいつだって常識を抜け出す。
「君の音楽を聴いていたから」
「……」
僕はなんていったんだ。上手く思い出せない。けれどこの気持ちは子供の時と同じ気持ちだった。
「覚えててくれたのね……」
彼女の言葉を上手く飲み込めない。だけど、僕は想いのまま綴る。
「いつ聴いても綺麗な音だった」
ああ、僕はあの子を知っていた。でも眼の前にいる人物は別人じゃないのか?
乱れる想い、まとまらない感情。このままではダメだ。
「きっとまだ思い出してないんでしょ」
「……うん。君は一体誰なんだ」
「今はこれくらいで十分よ。きっと思い出すわ芳」
「ごめん、でも君を知っている感覚だけはある」
「ふふ、ロマンチックね。それじゃ私は帰るわ」
返答を待たずに彼女は教室を去る。茜色が支配するこの場所で僕は立ち尽くす。
欠けゆく月の螺旋曲 ShlrPhys @ShlrPhys
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