欠けゆく月の螺旋曲
ShlrPhys
第1話
その日、正しく刻まれたテンポは消え去った。彼女にとって人生そのものだったはずなのにもう二度と再生されない。刻まれる音は歪に。求めていた自由は永久に届かないものへ。僕は無機質な窓のフレーム、収められた景色を眺めていた。落ちていく太陽と登る欠けた月。今でも夢に見る光景に心臓が握られたように、呼吸するのが苦しくなる。理解することにも才能は必要だった。
もう戻らない日常。手に入らない理想。大切なものは消え去ってしまう当たり前の常識、循環する自己嫌悪。
――だから決めたんだ。
*
ガラリと教室のドアが開かれる。勢いよく開け放たれることよりも驚かすのは授業中ということ、そして―戸口から彼女が姿を現した。
制服を着た学生。漆黒の髪が流れるように靡き、その立ち姿はまるで彫刻されたように整っている。白磁の肌、柔らかな顔つき。
誰もが、息を飲んだ。
彼女が壇上に立ち、透き通るような声で告げる。
「天才ピアニストが来たわよ」
冷やかしや嘘でもない――その確信が、教室を支配する。
「おい、君は一体何だ」
やっと我に返った現代文の教師が職務を思い出したかのように窘める。けれど彼女は意に介さない。
「それじゃ」
引き留める声を背に、立ち去る。教室には彼女の残した透明な香りが漂っているだけだった。
何事もなかったように授業が再開される。僕の胸には、何かが引っかかっていた。
――天才ピアニスト。
その言葉が、遠くで響いたような気がする。
授業が終わるや否や教室は蜂の巣をつついたように騒然とした。
「あれって転校生?」
「天才ピアニストっていってたよね」
誰一人として彼女を知っている人はいなかった。輪からはずれるように一人きりの友人の岡崎に話しかける。
「知ってる?」
「……知ってる。あいつは言ってた通りの天才ピアニストだよ」
「じゃあ賞とかも持ってる感じかな」
「ああ、持ってるぞ。一つや二つじゃなくな。悔しいけどあいつの出るコンクールは勝負にならない」
「なんだか……天才だね」
岡崎は今でもコンクールに挑戦している人物。演奏を聞いたことはないけど彼曰くそれなりに上手い部類に入るらしい。
「そうだよ。ってか調べたらたくさん記事が出るぞ」
「名前知らないよ」
「そうだったな。あいつは神無月だ。神無月麗華」
神無月と聞いてもピンとこない、違う世界を住んでる人に感じられた。一つ疑問が浮かび問いかける。
「同じ学校だったんだね、知らなかったよ」
「いや、あいつは違う学校だぞ。記事かなんかで見たけど音楽関係のトコだったはず」
「じゃあどうしてこの学校にいるの?」
次々に湧く疑問に彼は面倒だと思ったのか、はたまた何かを思い出したのか俯く。
「どうしたの」と聞くと、岡崎は神無月と会って話したことがあるらしい。そしてその時感じた印象は誠実な人であんな酔狂なことはしない人物だとか。それきり余程ショックだったのか突っ伏したまま動かなくなってしまう。彼女がどうしてこの学校に来たのかは分からないけれど、気にせずにはいられなかった。
*
チャイムがスピーカーから鳴り響き私はこの第二音楽室を出た。いきなり授業中に訪れるのはやり過ぎたかと、今になって後悔。思い立ったら行動せずにはいられないこの性質が私らしさを表している。だから変えようとも思えず、度々こうやって反省する。
「さあて、私のこと覚えているかしら?」
誰もいない廊下、いじらしい計画に笑みをこぼしてしまう。靴とリノリウムが奏でる甲高い音。コツンコツンと響く演奏は私が奏でるもの。これはコンクールに向けたものじゃなく自分に贈る音だ。だからこそこのままではダメになってしまうと悟る。閉鎖されたものほど虚しいものはない。
私が奏でる音にもう一つコツンコツンと音が混ざる。曲がり角の先から現れるのは女生徒。彼女は確かめるようにこちらを見つめていた。通り過ぎようとした時、小さく声が洩れた。
「れいちゃん……?」
突然名を呼ばれ困惑する。
「……一井さんね」
私をよく知る人物、そして追い詰めることができる唯一の人だ。柄にもなく緊張して手のひらが汗ばんでしまう。吐く息が徐々に早まり、焦りが募る。
「どうして逃げたの?」
投げかける純粋な質問が、逃げ場を奪っていく。―逃げた訳じゃない。この言葉が喉から上にはいかない。いくら自己弁護を図ろうとしても必ず失敗する。その一点において私は私自身が許せないのだ。
「どうして今さらなの? わたし、れいちゃんになにか悪いことしたかな」
色褪せた苦さが、口を紡ぐ度に思い出させる。してはいけないこと。一番嫌いなことをした事実。すべてが私を絡め取ってくる。呼吸が浅くなり、身動きができないまま立ち尽くす。
「そっか。もういいよ」
去っていく彼女の背を眺め、なにもできなかったことを再び悔やむ。謝罪をする訳でもなく言い訳をすることもない。仕方がないのだ、どちらも私はそれを良しとはしないから。だからこの感情が正しい。そうでなくては私は私でいられない。
――気持ちを引き締め一歩を刻んだ。
*
休憩時間になり落ち着いてた頃に「おい、お前にお客さんだぞ」と声をあげる岡崎。つられるようにして見るとそこには、幼馴染である一井さんがいた。
「やっほー羽野くん。今日も元気してる?」
この明るい雰囲気は彼女の持ち味で一緒にいると僕まで明るくなってしまう。
「どうしたの」
「なんか騒がしいね。なにかあったの?」
彼女の様子からまだクラスには騒動が届いていないようだ。
「うん、授業中に変な人が入って来てね」
「え? 誰々?」
興味津々というように声を高くして急かす。
「神無月ってやつ。天才ピアニストだよ」
すると割って入る岡崎の言葉を受け一瞬顔をしかめる。その表情は僕には分かったが気付かず神無月の説明を続ける岡崎。
「羽野くんはその人知ってる?」
一通りの説明を聞いた彼女は僕に問う。
「いや、あんなに綺麗な人だったら流石に覚えてるよって痛いよ」
柄にもなくすねを蹴る一井さん。まずかった、女の子の前で他の子を綺麗だなんて。
「……そう」
露骨にテンションが下がった。こうなったら何を聞いても答えてくれない。幼馴染だから知っているこの性質。機嫌を治すまではテコの原理でも動かないけど、彼女は優しいから直ぐに許してくれる、いつもの光景だ。
なのに「酷い」と小声で洩らす。彼女はなにか考え事をしていて気付かなかったようだけど、はっきりと聞こえた。いつもとどこか違う様子に狼狽えてしまう。だから謝罪の気持ちを込めて一つ提案する。
「お昼おごるよ」
「…え。いいの? やったー」
人と話している最中に考え事をするのは珍しかった。だけど思い出したのか途端に調子を戻す。やはりどこか違っていると分かってしまう。その理由を聞くにはまだ時じゃないと感じたから僕は知らないフリをする。
「お熱いね」
茶化す岡崎がいて少し静止した日常がまた動き出す。ようやく胸を撫で下ろし辺りを見るとクラスメイトの大半がいなくなっていた。
「あれ? 移動教室だっけ」
「あ。そうだな、行こうぜ」
「んじゃねー」
察した一井さんは教室を足早に去り、僕達は次の授業へと向かう。
お昼になり僕と一井さんは中庭で昼食を取ることにした。春も終わりに近いこの時期は堪能して満足した人が多いのか、人は少ない。隅っこのベンチに座り購買で買ったお弁当を開く。
「羽野くんっていっつも買ってるの?」
「そうだね。作るのも面倒だし楽だから」
「ダメだよこれじゃ栄養が偏っちゃう。んー仕方ないね。羽野くんが食べたいなら作ってもいいよ」
「え。一井さんて料理できたの……?」
衝撃の言葉に思わず息を飲む。小学生の頃からの知り合いだけど料理の話題なんてしたことがなかった。というよりも彼女はまったく全然ダメな味覚をしているから驚いてしまう。
「失礼だよ! 料理できるよ! 今日はたまたま作って来なかっただけだもん」
むくれる一井さん。
「ごめんごめん」
「で、いるの。いらないの」
両手で顔を包み目を合わせ逃げられないようにする。正直気持ちとしては嬉しい、不安なのは味だけ。この前、カフェで「激辛チーズケーキ」を頼んで「美味しい」といいながら完食していた。でもその表情を見ていると断れなかった。
「頼んでもいい?」と告げる。
「よろしい。任せなさい」
満足した表情で箸を運んでいく。そのまま他愛のない話を重ねながら食べ終わる。飲み物を口に運び一息ついた所で彼女は切り出した。
「羽野くんはさ、ほんとに神無月さんを知らないの?」
話す彼女のトーンはさっき感じた僕の違和感と同じ。慎重に答えないとダメだと感じる。そして少し考え、導きだした答えを伝えた。
「分からない。だけどあの天才ピアニストって言葉には懐かしさはあったんだ」
「ふ~ん、そう。だったら私は何もいわないよ」
「どうして? 神無月さんを知ってるの」
質問に彼女は答えずに視線を上に向けて、なにかをじっと見ていた。そして「いわない」とだけ再び口にして視線を戻す。
もう一度沈黙を破る時、いつもと同じ彼女に戻っていた。
一日中話題は神無月さんでもちきりだった。だけど誰も岡崎のように分からないから、変な美人が僕の教室にやってきたとだけ広まる。教師は聞かれても何も答えてはくれないし、よく知らないと一点張り。
どこのクラスにもいないことだけは確かで転校生だと誰もが感づいていた。どうして期日を守らないのかは分からないけど、きっと直ぐに確かになるとだけは何故か分かる。理由を聞かれてもそんな感じだから。としか言えない僕のオカルトな考え方に岡崎は苦笑いしてた。
茜色の空の下を僕は歩く。学校からはそれなりに遠い自宅を目指して。よく自転車に乗れとツッコまれることはあるけど、ゆっくりと歩き景色を眺めるこの時間が好きだった。
住宅街に入る。人の気配が消えた頃ー異変に気づいた。
広い空き地の前に、誰かが立っている。
制服姿にそのシルエットーー
「ねえそこの君。ちょっといい?」
声をかけられて立ち止まる。振り返ると、そこに神無月さんが立っていた。
夕日に照らされた横顔。今朝、教室で見た彼女とは少し違って見えたーー。
どこか不安そうなその表情。
「どうしたの?」
近づくと、彼女は空き地を指した。
「ここって屋敷がなかったっけ?」
その言葉に、心臓が跳ねた。屋敷ーーこの空き地に、確かに屋敷はあった。
「三年前に、解体されたよ」
僕の答えを聞いて、彼女は小さく息を吐く。予想していた、という顔。
「……そう、ありがとう。助かったわ」
それだけを言うと、踵を返した。小さくなる背中。
聞きたいことはあった。でも声をかけることはできないでいる。それは一井さんのことを聞いていいのか躊躇われたから。
なにもない空き地を見つめる。ここに、何かあっただろうか。
記憶を探ってみても何も浮かばない。ただ、どこか懐かしさと切なさが胸中を掠めた。
家に着き、一息つく。誰も帰らない場所は淋しい。それよりももっと後悔という感情を刺激される。幼い頃にできた家具の傷や匂い。そういった一つ一つの思いが逃がしてはくれない。無力で何もできずにいた後悔。それが僕を離さずに付きまとい、許さない。ああ、自分という人間は最低だ。帰ってからまたとなく繰り返されるこの思いを胸にーー今日も眠りにつく。
壇上に彼女は優雅に立っていた。説明をする担任を他所にあちこちでコソコソと話し声が聞こえる。確かに神無月さんは気になることが沢山ある、みんなのように生い立ちや転校の理由は知りたい。だけど僕はそれ以上に昨日放課後に出会った物悲しい雰囲気を纏った彼女が気がかりだった。その響きは過去にまで届くような不思議な力を持って僕を結いつける。
自己紹介の途中、思わず耳を疑ってしまった。「会いたい人がいる」その言葉は思春期の人間に衝撃を与えるのに十分な内容。クラスからは黄色い声が上がり神無月を当惑させた。
「ロマンチックなことなんて何一つないわ。これは私のピアノを決定付けるための重要なこと、あなた達にとやかく言われる筋合いはないわ」
少し語気が荒くなったしまったのか、彼女はその後に「私は真剣なの」と付け加えていたが彼女の纏うオーラがそれを誤魔化しには思わせない。やはり気になってしまうのは誰に会いに来たのかその一点。自己紹介を終えてその人物を言わないことは彼女なりの配慮なのだろう。
休み時間になり興味を惹かれたクラスメイトたちが話しかけるのかと思えば、彼女は誰かに話しかけられることはなく一人本を読んでいた。視線は注がれているもののコンクールで培われた、従来から持っている性質なのか、何故かその光景が僕には寂しく感じられた。
「どうもどうも羽野くん」
神無月さんに向けていて一井さんの接近に気付かなかった。直ぐにそちらを向いて「やあ」と挨拶する。
「このクラスなんだね」
「そうだね、このクラス」
言いながら気付いた、一井さんが真剣に神無月さんを見ていることに。ただその表情にはどこか険しさがあった。気にはなったけど追求するのは躊躇われる。僕達はいっつもそんな関係で上手くやってきた、だから今日だけはってことにはならない。
「今日ってCDの発売日だっけ?」
「んんってそうそう! 今日放課後行こうよー」
さっきの表情とは打って変わってキラキラとした目になる。
「興味ないよ」
「え~なんでそんなこというのさ、絶対ついてきてもらうからね」
本心から興味がない訳じゃない、このふわふわした関係がちょうどいいんだ。確かに神無月さんという非日常が立て続けに起こっていたけど、そんなものは直ぐに流れ去ってしまう。僕の胸の奥に響くこの感覚もきっと気の所為なのだ。自分がヒーローにでもなったような錯覚に過ぎないんだ。
「ねえ……君って芳なの?」
なんてことのない日々に戻るはずだったのに、どうやらまだ先らしい。僕と一井さんの間には件の美少女がいた。
「どうして僕の名前を?」
別に名簿を確認していれば直ぐに分かる。だけど彼女の様子は違い、懐かしさをはらんだ親しげな人に対する物言い。
「昨日のあなたが芳だったなんて、ふふなんて運命的なのかしらね。ねえ放課後は少し私に付き合って貰えないかしら?」
「れいちゃん」
舞い上がる神無月さんを一井さんは諌める。どうして一井さんは神無月さんを名前を呼んでいるのか、そして神無月さんが僕を知っているのか分からないことだらけだ。
「……ダメかしら」
躊躇いがちに視線を一井さんに向ける神無月さんはまるで怒られた犬のような表情をしていた。
「仕方ない。羽野くんクレープ奢りね」
「え? なんでさ」
「うるさい、奢んなきゃ課題見せてあげない」
「課題……あっ数学の課題、やってない。見せてよ一井さん」
「だったら奢りね」
「うん分かったよ」
「そういうことだかられいちゃん、後はよろしくね」
「ええ、ありがとう助かったわ。じゃあ芳、放課後にお願いね」
「あれ? CDはいいのかな、多分そういうことだと思うけど。それよりもどうして神無月さんは僕の名前を知ってるの?」
「……やっぱりね。芳は私のこと覚えてないでしょ?」
溜息を一つ。見るからに気分を落とした様子だけど諦めていたのか直ぐに立ち直る。
「うん、悪いんだけどまったく思い出せないよ」
「じゃあ今は何を言っても仕方ないのね。だったら今日の放課後はいいわ、直ぐに一井さんに行けるって言いに行きなさい」
うまく状況を飲み込めていない僕は促されるまま教室を去った一井さんを追いかけ、再び放課後の約束をした。さっきからコロコロと変わる状況に追いつけない。神無月さんは僕を知っているけど僕は神無月さんを知らない、そして一井さんと神無月さんは互いを知っている。昨日今日の関係ではないことが二人の会話から読み取れる。どうして僕だけ知らないんだろうか、すごく失礼なことをしているんじゃないのか。不安になる以外のことができない僕に自分自身に嫌気が差す。
この始まってしまった非日常。神無月という人間一人で僕は幼馴染である一井さんとの関係が分からなくなってしまう。そんな盤石とは程遠い希薄な繋がりだったなんて。なにより彼女の存在だ。天才ピアニストとあの解体された屋敷にはなにか繋がりがあるーー思い出せはしない。けれど空き地に植えられていた金木犀の香りが鼻孔を擽った。
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