第7話








「オヤジ――――!」





 


 食卓で食事をしていた孫堅そんけんは食べようとした瞬間に、そんな大声で呼ばれて顔を顰めた。



「まったくデカい声だなぁ~ 一体誰に似たんだ……」


 下で呼び続けている孫策に、仕方なく孫堅は立ち上がった。


「やかましいわ! ドラ息子!」


 孫堅の大声が屋敷内に響き渡る。


 孫黎そんれいが「きゃーっ」と笑いながら耳を塞ぎ、孫権そんけんは青い目をぱちぱちさせていた。

 二人の子供が食べるのを見守りながら、母親である耀淡ようたんが「貴方にですわよ」と冷静に応えた。


「飲み込むように朝食を食いおって! お前はゆっくり家族で食事も出来んのか!」


 孫堅は怒鳴ったが、孫策そんさくはもう馬に乗った姿で、快活な笑顔を浮かべた。


「悪ぃな! ゆっくり飯なんか食ってる時間ねえんだよ。

 周瑜ん家に行って来るけど、なんか持ってくもんあるかぁ~?」


「一週間前に帰って来たばかりだろうが……何をお前は周家に入り浸っておるんだ……迷惑になるだろうが」


「また来ていいって周尚しゅうしょう殿言ってたし」


「社交辞令だバカモン!!」


周瑜しゅうゆに釣り教えてやる約束してんだよ。

 何にもないなら別にいい」


「策。お菓子を持って行きなさい。

 あと着物を。公瑾こうきん殿に渡すのですよ。元々貴方の為に作らせたものですけど、貴方全く着てくれないんですもの。品はいいものですよ。よろしければどうぞ、とちゃんと言って差し上げてね。私の部屋に置いてありますから」





「おう! わかったー! ありがとな~母上! じゃーな~!」


 



「……お前も何をお土産を用意しておるんだ」


 隣に立った妻に、孫堅が腕を組んで眉間に皺を寄せる。


「だってどうせまたお邪魔しに行くと分かっていましたから」


「お前のせいで策が嬉々として飛び出して行ったではないか」


「あら。私が何も持たせなくても、あの子は嬉々として飛び出していきましたわよ」

 

 耀淡ようたんは孫堅を相手にせず、席に戻る。


「最近策兄さまお留守ばっかり。

 じょ、ってそんなに楽しい所なの?

 れいも行きたい!」


「お友達がいるのですよ。黎はまだ小さいからダメです。

 馬にもまだ乗れないでしょう」


「父さまーっ! 黎も馬乗りたいー! 馬教えてよーっ」


 孫黎が涙目になって言うと、戻って来た孫堅が大きな手で彼女の頭を撫でてやる。


「よしよし。分かった分かった。父が馬に乗せてやろう。そうしたら落ちる心配もないからな」


「ほんとーっ!?」


 泣いてた子が、もう笑顔になっている。


「あなた。黎に馬は早いですよ」

「乗りたいと言っておるのだ。乗せてやるくらいよかろう」


「黎が一緒だとあなたはしゃぐから……うっかり落ちたりなさらないでね」


「……おまえは俺を一体何歳だと思っておるのだ」


 子供のような注意をされた孫堅が眉を寄せている。

 彼はそれから、こんな騒々しい中で一人、姿勢正しく黙々とご飯を食べていた次男の孫権に声を掛けた。


「権。お前はもう馬は乗れるようになったか。

 俺が見てやろう。お前も遠駆けについてきなさい」


 青い瞳を輝かせて、孫権は頷いた。


「兄上ほど、まだ上手ではないですが」


「あいつと比べんでいい。あんなもん七歳としては規格外だ」


「それにしても、あの策があんなに入り浸るなんて。よほどその周瑜殿がお気に入りなのですねぇ。

 あなた、一度公瑾殿にもうちに来ていただいたら。

 私もきちんと挨拶をしておきたいですし、もてなしていただくばかりでは申し訳ないですもの」


「周瑜はなかなかの気概のある少年だぞ。

 近所の腕白どもとは一味違うと俺は見た」


「何が違うのですか?」


 孫堅はにやり、と笑った。


「――――見れば一目で分かるさ」


「?」


「非凡な周瑜に、策が惹かれるのは、よく分かるのだがなぁ……」


 苦笑しながら、箸を再び手にした。


「それにしても、一瞬もじっとしておらん奴だな。

 耀よう。お前、策が腹にいた時、月が懐に飛び込む夢を見たとか言っていたが、太陽の間違いだろう。

 あやつには月を見上げる情緒も備わっとらんわ……」


「わたしも策にいさまはね、月って言うより太陽ってかんじするの。

 いつもキラキラしてて元気いっぱいなの」


 可愛らしい孫黎の様子に、両親が目を細めて笑顔を見せている。


「確かに白い月が体の中に飛び込んだ夢を見たのですよ。

 月は少しだけ欠けていましたけれど――……。

 もしかしたら、その周瑜殿が、策の欠けた月を満たす方なのかしら」


 妻は何気なく、楽しそうに言った言葉だったのだが、孫堅はふと、その言葉が心に残ったのだった。




◇    ◇    ◇





 周瑜~!



 大声が聞こえた。


 最近、遠くから呼ぶこの声が耳に残って、覚えてしまった。


 草を踏む音がする。


「周瑜ーっ」


 筆をおいて、周瑜は円型の窓から顔を出した。


 孫策が庭を横切って駆けて来る。


「孫策。また来たのか」


 頬杖を付きつつ、おかしそうに周瑜が笑った。


 その顔を見ても、周瑜が自分の来訪を嫌がってないのが分かるから、もう孫策は周家の人の迷惑とかは考えるのは止めようと思ったのだ。


「はいこれ。手土産だ。おふくろから」


「? そんな気を遣わなくてもいいのに」


「菓子と、着物だって。菓子は周家の皆さんにどうぞで、着物はお前にだってさ」


「わたしに?」


「うん。俺たち今は身長変わんねえし、多分着れるだろ。

 気を遣わんでいいぞ。俺、そういう服動きにくいから着ないんだ」


 桐の箱に入れられた着物を取り出した。

 美しい青色に銀糸で文様が描かれた着物だ。

 手で触れてみると、非常に手触りがいい。


「これは多分とてもいい品だぞ。君は本当に着なくていいのか?」


「いい。色が好みじゃない」


「綺麗なのに」


「それはともかく、今、どうやって『いい品だ』ってお前判断したんだ?」

「? どうやってって……綺麗な色と凝った文様と、……あと手触りか?」

「手触りでなんでいい品だって分かるんだ?」


「なんでと言われても、いい品はいい糸を使っているから手触りがいいんだよ。一本一本丁寧に結い上げられているからね。指に雑味が触れないというか……」


「お前は服にも詳しいのか……」


 孫策が口許を引きつらせている。


「別に詳しいと言うほどでもないよ。いいんだ。いい品じゃなくても。これは色が好きだから、有り難くもらうよ」


「うん」


「母君に私が喜んでいたと、ちゃんと伝えてくれ」


「うん」


 孫策は素直に頷いた。


「本当に伝えるんだぞ。孫策。君はこういうことに無頓着のようだけど、普通、母親は自分の子供が他人の家に入り浸っていたら、何かお礼をしなければと考えるものなんだよ。

 きっと心配して、こういうものを君に持たせたんだろうからね」


「うん。というかお前母親いないのになんでそんな母親のことまで分かるんだよ」


「なんとなくだ」


「そこまでスゴイと逆にちょっと出来過ぎて気持ち悪いぞおまえ……」


 口許をまた引きつらせた孫策に、周瑜が声を立てて笑った。


「負け惜しみか?」


 そして彼は、綺麗な顔で微笑んだ。


 孫策はまだ、この顔に慣れない。

 赤くなって、彼は照れ隠しにわざと大きな声を出す。

 

「誰が! 周瑜! 俺は今日は釣りをお前に教えに来てやったんだぞ」


「なんだ。今日は教えてくれるのか。釣りで対決を挑んで来て勝った勝ったとはしゃぐのはもうやめたのか」


「…………あれは虚しいからもうやめた」


 周瑜が吹き出す。


「それは残念だ。日頃の鬱憤を晴らすかのように魚を釣りまくってはしゃぐ君を見るのがおかしくて好きだったのに」


「おかしかったらその時に言えよ! とめろよ!」


 孫策が赤面している。


「いいよ。釣りは確かに君の方が上手い。要領を得ているからね。物事というのは上手い人から教わった方が上手くなる可能性も高い。

 釣りは君に教わろう」


「おう! そんでさ、親父が今度ここに来たら二人で大漁してオヤジへこましてやろうぜ!」


「何故孫堅様をへこます必要が?」


 へへっ、と孫策が楽しそうに笑った。


「だって俺一人じゃまだあのオヤジには敵わないけどさ。お前と組めば親父にも勝てるような気がすんだよな~! それってなんか、ワクワクすんだよ」


 一瞬、周瑜が黒い瞳を瞬かせたが、はしゃいでいる孫策はそれに気づかなかった。

 くす……と気付けば周瑜が笑っている。

 笑われて、孫策は赤くなった。


「公瑾! お前がうちのオヤジに憧れちゃってんのは知ってるけどな! お前と俺は友達なんだから、俺といる時は親父より俺に味方しろよ!」


 それはどんな理屈だと思ったが、多分孫策は理屈などでは考えて喋っていないのだろうから、周瑜は笑いながら頷いてやる。




「わかったよ。伯符はくふ






◇    ◇    ◇


 





――――それは、些細な約束だった。







 多感な年頃の息子が、偉大な父に挑戦をしたがる、そんな子供心だ。


 それでも孫策はそれから十年経っても「お前と組めばどんな奴にも勝てる気がする」と、同じことを言いながら笑う。

 

 父親のように周瑜が慕い、孫策がそうすることを許した、二人にとっての父親だった孫堅が討たれて死んだ今でも。


 些細な約束が、大きな約束になり、

 ……今は周瑜自身を支える、誓いとなっている。


 孫策があの日、空から降って来て、大切な芍薬の樹を潰してしまったあの時から――二人で遠駆けの勝負をしたあの時から、全ては今に続いているように彼は思う。


 あの時周瑜が負けていたら、きっと孫策は、これほど周瑜を慕わなかった気がする。

 不甲斐無い奴だと、俺の力でどうとでもなる奴だと、きっと周瑜を侮り続けただろう。





 父親と同じなのだ。


 出会った時から、孫策にとって孫堅は偉大な父であり、道を違えることなど考えられない、追うべき存在だった。

 周瑜はいつか自分の為になればと暗闇の中、自分だけを想って、様々なことを学んで来た。


 孫策に出会った時、そうして来たことが形になって当時、少年としては間違いなく非凡だった孫策に勝ったのだ。

 



 ……そして彼の心を手に入れた。


 慕ってもらえる、そういう存在になれた。





 自分自身の力が結び付けたこの『縁』を、周瑜は殊の外、気に入っている。



 今も時々誰かから、孫堅が亡くなった時には呉の豪族たちは世の成り行きを見守る為に、一時孫家とは距離を置こうとしたのに、周瑜だけが当時迷わず孫策の許に馳せ参じたことを、どうしてそんなことが出来たのか不思議に思うと言われることがある。


 

 誰が不思議に思っても、周瑜には当然の選択だった。


 孫策には自分が必要だと思ったのだ。

 

 ……そして、周瑜にも孫策という存在が必要だった。






『父』を失ったのだ。

 




 当たり前だ。













(わたしと君が組めば)


(きっと切り拓けない困難は無いと思ったからさ)





 周瑜! 




 幼い頃と何も変わらない笑顔で。

 何も変わらない呼び方で、





 今日も孫策が呼んでいる。




【終】








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花天月地『月と太陽が出会う場所』 七海ポルカ @reeeeeen13

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