第6話





(……なんか眠れねー……)





 林で寝こけたせいだろうか。


 孫策は寝つきはいい方で、横になれば大概すぐに眠れるのだが、その日だけは何故か眼が冴えてしまっていた。


 一度寝台に横になったものの、月が高くなっても一向に眠くならず、彼はついに身を起こした。

 寝台から降りて、窓辺に寄り、窓を開けて風を入れる。

 そこにあった横椅子に腰かけ、庭の方を眺めながら息を付く。

 

 だめだ。完全に目が冴えてしまった。


 慣れない、眠れない夜に、少しだけ夜風にでも当たれば眠くなるかもしれないと、孫策は借りた夜着のまま、その窓から外に出た。


 周家の人々の繊細な感性を感じさせる、美しく整えられた庭だ。

 垣根に囲まれた離れの小さな池には、睡蓮の若い葉が、水面に浮かんでいる。


 庭を横切って、本宅の庭の方に入って行くと、一瞬前方で灯が揺れるのを見た。


(?)


 ゆっくり近づいて行くと、庭の一画で小さな影が動いていた。

 

 ――周瑜だった。


 花壇の所で何かをしている。


(あいつこんな時間に何してんだ?)


 もう屋敷の者達も深い眠りについているであろう、深夜である。


 芍薬しゃくやくの花壇だ。


(あそこは確か……)


 

◇    ◇    ◇



 背後から近づいて来る足音に、周瑜は振り返った。



 目が合って、孫策は僅かに手を上げてみせる。


「……よう。」


「どうした、孫策。眠れないのか?」


 周瑜は一度立ち上がり、手に付いた泥を払い落した。


「いや、寝れねぇっていうか……林で寝たからさ。

 お前こそこんな時間に庭仕事か?」


「うん。明日の朝にするつもりだったが、気になって」


 見遣ると、綺麗な芍薬の花壇がそこだけ花が散って、枝が折れて酷い状況だ。

 周瑜は折れた枝を鋏で切り落として、散った花を片付けている。

 側に小さな芍薬の樹が横に倒しておかれていた。


「これ、俺が壊したやつか。――すまん、忘れてた!」


 孫策はその時は何故か、素直に謝っていた。

 周瑜に庭いじりなど、似合わないと思ったからだろうか?

 こんな時間に直すなど、よほど大切な庭なのだろう。

 だが周瑜は怒ってはいないようだ。小さく笑う。


「気にするな。丁度向こうに、まだ小さい若木があった。

 それを植え替えるよ」


「手伝う」


 孫策が夜着の腕をまくり、近づいてきた。


「いや、気にするな。君は客人だし、そんなことをさせるわけには……」


「気にすんなって言われても気になんの! いいから手伝わせろよ! 俺は何すればいい?」


 周瑜は少し考えたようだが、頷いた。


「木を抜く前に無事な枝は花だけ取って切り落とす。枝は私が切るから、君は土をこれで掘ってくれるか?」


 道具を渡されて、孫策は頷く。


「おう!」


 彼は力強く、ガシガシと土を掘り始めた。

 孫堅は有力豪族だが、孫策も土いじりは初めてやるような感じはしなかった。

 孫堅なら、子供を単なる裕福な家の子供としては育てないような気がしていたが、それは間違いではなかったらしい。

 

 黙々と掘り始めた孫策に小さい笑みを向けてから、周瑜も再び芍薬の側に膝を付き、丁寧に花を切り落としてやった。




◇    ◇    ◇





 応急手当だったが、花壇の樹を二本植え替えて、今はそこだけ目立ってしまっているが、この時期は太陽も雨もあるから、成長は早いだろうし、すぐに景色に馴染むだろうと周瑜は言った。


 その芍薬の庭に面した所が、周瑜の寝所だった。

 

 泥だらけになったので、周瑜が自分の夜着を孫策に貸してくれたのだ。

 周瑜も着替えて、冷たいお茶でも入れて来る、と少し部屋を出て行った。

 

 孫策は開かれた大窓の側に腰を下ろして、部屋をぐるりと見下ろした。

 片付けを基本的に自分では一切しない孫策とは違い、周瑜の部屋はひどく彼らしい、本棚から棚の装飾までがきちんと片付けられ、揃えられていて、余計な物がほとんど無かった。


 他人の部屋など落ち着かないはずなのに、ここは妙に落ち着く部屋だった。


 少し身体を動かして今日一日、なんだかモヤモヤしていたものを一時的に忘れることが出来たからだろうか。

 負けた当初は胸を掻きむしりたいくらい腹が立ったが、今は何故か、負けたことを冷静に受け止められている。

 負けて良かったとさえ、思う自分がいた。


(いや……良かったってことはねえけどよ)


 でももし自分の方が勝っていたら、自分は周瑜に勝ったと鼻高々で寿春じゅしゅんに帰り、屋敷であんな奴大したことないなどと触れ回り、調子に乗っていただろう。


 ――この夜が、妙に心が落ち着いているから。


 きっと勢いで勝ったりしていたら、こんな風な夜にはならなかったんだろうなと思うから、……だから負けて良かったのだと思うのだ。


 扉が開く音がして、周瑜が戻って来る。


 空は少しだけ、闇色から藍色へと変わり出していた。


「孫策、ここの机の椅子に座れ」


 周瑜が机に持って来た盆を置いたが、孫策が「うん」と頷いたまま、大窓の側の絨毯の上に腰を下ろして動かないのを見て、周瑜はしばらくして、盆を持って孫策の側にやって来た。

 盆をそこに下ろし、彼自身も孫策に倣って絨毯の上に直接腰を下ろす。

 盆には茶椀が二つと、皿に、皮から剥がれた、赤い果実が二つ乗っていた。


「これってなんの実だ?」


 鮮やかな朱色が洗いたての瑞々しさで輝いている。


「柘榴だ」


 周瑜は答えた。

 片膝を立てて座り、赤い粒に手を伸ばす。

「あの林で見つけた。君がなかなか来なかったから、たくさん摘んだよ」

 孫策はムッとして、周瑜の真似をしてすぐに赤い粒に手を伸ばした。

 想像したのはもっと酸味がある味だったので、その甘さにちょっと驚く。


「甘いな」


 周瑜は小さく唇だけで笑ったようだ。


「うん。よく熟れてる」


 そう、分かった上で摘んだのだろう。

 孫策は溜め息をついた。


「……お前ってさ。なんか苦手なこととかないのかよ?」


「うん?」


「剣も自信あるのか」

 周瑜は横顔で笑った。


「戦場に出るのに剣が自信がないでは話にならない。馬よりも、剣の方が私は自信がある」


 馬よりも……周瑜の騎乗能力を目の当たりにした孫策は閉口する。

 自分はどうだろう。剣にも勿論自信はあったが、実の所馬の方が遥かに自信があった。

 あの手綱さばきよりも自信があるという、周瑜の剣とはどの程度のものなのだろうか。

 興味と、不安と、期待と……よく分からない感情がむくむくと湧き上がってくる。


 寿春には、こことは違って近所に子供たちがたくさんいるから、遊び相手には事欠かない。


 同年代の少年たちの中では、孫策は何をしても抜きんでていた。


 初めてだ。

 同い年の少年に、こんな完膚なきまでに負けて、その彼が、何をどこまで出来るのか、無性に知りたくて、――知りたくなくて。


 周瑜は涼しい横顔で、応急処置をした芍薬の庭を眺めている。


 情緒的な感覚で言っても、芍薬を尻で思い切り押し潰しておきながら気持ち良く忘れた孫策は周瑜に負けている。


 柘榴の実の甘い美味さが、何とも胸に染みた。


 孫策は狩りは得意だが、草木には無頓着だ。

 腐りかけた果実を熟れてると勘違いして食し、死にかけたことが三回くらいある。

 以後、母親に「お前は外で拾ったものは絶対に勝手に口にするな」と誓わされている。


 

(くっそー 涼しい顔しやがって~)



 隣で、すでに結い上げていた黒髪を下ろし、緩やかな風に吹かれている周瑜は、やはり少女のような横顔だ。

 自分はこんなに周瑜が気になっているのに、周瑜の方は一切孫策に興味ないような様子なのが、何とも惨めである。



「……そうだな。釣りは苦手かもしれん。孫堅様と近くの川に釣りに行ったが、私は一匹も取れなかった」



 思い出したように周瑜が言ったので、孫策は目を輝かせる。

 孫策は釣りは得意だった。

 小さい頃から、父親に連れられて釣りに付き合っていたので、慣れている。


「よっしゃ釣りだな! 俺は釣りは得意だぜ!」


「今はやったことが無くて苦手なだけだ。これから釣りも練習するから、じきに上手くなるよ」


「……明日だ! 明日釣りで勝負するぞ周瑜! 絶対川に連れてけよ!」


 こいつに成長する時間を与えてはいけないと直感で思った孫策はすぐさま提案した。


「はは」


 周瑜が明るく笑った。


「孫策は負けず嫌いだな」


「うるせーっ バカにすんな!」


「バカにはしてないよ。負けず嫌いなのはいいことだ。

 負けたくないと思えば、人は精進するからね。

 負けず嫌いな人は、強い人さ」


 孫策は閉口した。


 周瑜が振り返って、黒い瞳で彼を見て来る。


「こういう言い方は、君は腹が立つかもしれないけど、孫策。今日の遠駆けは私に完璧な地の利があった。

 私は晴れていれば毎朝、あそこへ一駆けするのが日課なんだ。

 あそこまで私について来れたのは、君が初めてだった。

 正直、驚いたよ。

 君だってここで暮らして私と同じ日課を過ごせば、すぐに勝ち負けの勝負が出来るようになるさ。

 君の騎乗能力は素晴らしかった。

 馬の操り方が巧みだ。馬も気持ち良さそうに走っていただろう?

 初めて乗った馬でも、君はあれだけ駆けさせられる」


 ため息が出た。


 孫策はごろん、とそこに横になった。


「……慰めんな。お前にそういうこと言われると、余計落ち込んで来る」


「落ち込むことは無いよと言いたかったんだよ」


 苦笑して、周瑜がまた庭へと視線を向けた。


「…………なんかあるのか?」


「ん?」


「あの芍薬の庭。潰れたまま、一日もほっとけねえって言うからには、大切なんだろ」


「私の母親にとってはね」


 孫策は周瑜を見た。

 彼の両親は亡くなっていると、周尚が言っていた。


「亡くなった母が、あの芍薬の庭が特に好きだった。

 私がこの世で母と一緒にいられたのは数年だけだ。

 普通、子は親にいつか恩返しをするものだけれど、私はそれほど大切に出来なかったから。

 だから母親が好きだった花壇は、大切にしてる。

 意味は無いのかもしれないけど、気が少し晴れるんだ」


 孫策は思わず身を起こした。


「……すまん。そんな大切な花だと知らず」


 すぐに謝った孫策を、周瑜は優しい顔で見る。


「いいさ。植え替えを手伝ってもらった。それでもう十分だ」


「そうか……?」


「はは……君は素直だな」


「すな、」


 そんなこと初めて言われた。

 父親とはよく張り合うので、どちらかというと素直じゃないと言われることの方が多い。


「ただ喧嘩っ早い性格と思ったら、違うみたいだ」


「ただ喧嘩っ早いって人をイノシシみてぇに……」


 だが実際、今回孫策がやらかしたことは猪突猛進以外の何物でもなかったので、それ以上反論が出来なかった。


 孫策はもう一度、今度はうつ伏せに、絨毯の上に伸びる。


「……おまえさ、親父のこと言ってただろ。憧れてるとか……。

 そりゃ確かにうちのオヤジ熊も素手で倒したことがある豪傑だけど、実際あんなのが家にいると、いいことばっかじゃないぞ」


「熊を素手で倒したのか?」


「うん。もっと昔、俺ら兄弟が家族で遠駆けしに行った時に、俺と弟の権が川で遊んでたら、いきなり熊出てよ。

 もう終わったと思ったら、親父が後ろからこんなでっかい岩を投げつけて、まだ抵抗を見せた熊の顔面に飛び蹴り食らわしたんだよ。

 あれを見た時、俺はもう一生親父に逆らわねえって決めたんだ」


「さすがは孫堅様だな。対処が素晴らしい」


 目を輝かせた周瑜に孫策は顔を顰める。


「だーかーら! 憧れんなっつの! 確かに腕っぷしは強いけどダメな所もいっぱいあるぞ。

 結婚してんのに未だに綺麗な女を見かけるといい女だな~とか言っておふくろに耳ぎゅーっ抓られてたりするし、酒を飲んでは二日酔いするし、どこでも平気で寝るし……」


 そうなのか。周瑜が笑っている。


「そーだよ!」


「大きな人だなと、思ったんだよ」


 周瑜が言った。


「まだよく理由は分からない。息子と同じ年だと、ここにいる時は遊んでもらったのは確かだけど、会った時にとにかく、なにか大きな人だと思ったんだ」


 孫策も父親は大きいなと思うことがある。

 単純な体の大きさのことではない。仕草や、雰囲気で、そう思うのだ。


「……おまえさ、色々勉強してたりするの、何か理由があるのか?」


 周瑜も、肘をつき、横になった。


「わたしはいつかこの家を出るんだ。

 そして誰かに仕官して、取り立ててもらって、名を上げたい」


「名を上げる……」


 孫策は驚いた。

 同年代の少年たちは、明日何をして遊ぶかどうかを一生懸命考えているものだ。

 少なくとも、孫策の知っている同年代の少年たちはそうだった。

 そんなことを考えている者は誰もいない。


 孫策は、考えていた。


 父親が豫洲よしゅう刺史ししだから、孫家は武門だった。

 自分もいつか軍職に就くと、迷いなく孫策は考えている。


「名を上げるというか、名を必要とされたいんだ」


 隣の周瑜を見遣る。




「誰かに必要とされたい」




 それは周瑜らしくない、やけに切実に響く言葉だった。


「この屋敷では実の子ではないけれど、一族の子供として私を大切に育ててくれる。

 でもそれは家族だからだ。

 家族は大切だけど、それだけで終わりたくない。

 一度は家を出なければ、自分の強さが本当かどうか、判断がつかない。

 見たことも無い人間に会い、競い、……いつか誰かに必要とされたい。

 悪心のある者や、弱い人間や、狡い人間は嫌だ。

 正しい心を持つ、立派な人間に、必要とされて名を呼ばれたい」


 夢を語る周瑜の表情が輝いている。


 

 ……一度は家を出なければ。


 その言葉は、孫策の心には響いた。


 彼もまた、家族を大切に思っていて、愛していたけれど、永遠にそのぬくもりの中に守られていたいとは全く思っていなかった。

 そうなったら一生、父親は多分自分を一人前の男と認めてくれないような気がするからだろうか?


「そうなるためには、私も才能を伸ばして、たくさんの力を手に入れなければ、誰かに必要だとは言ってもらえないだろう?

 得手不得手はあっても、興味が湧いたものは、とりあえず何でもやることにしてる。

 軍術が好きだから、軍師になれれば一番いいけれど」


「軍師……」


「世はこれから、きっともっと乱れると思う。」


 周瑜は凛とした横顔で言った。


「それがいいか悪いかは別にしても、戦をする機会は増えていくはずだ。

 平和な世なら、軍師は廃業するけれど、恐らく……そうはならないだろう」


「今、北の洛陽らくようで、董卓とうたくっていう将軍が都の軍を牛耳って、各地で横暴を働いているらしい」


「ああ。私も聞いた。帝は彼の手の内で、そういう行いを諌めることも出来ないと」


「諸将が連合を組むんじゃないかって噂もあるみたいだ。

 もし、そうなれば、連合の誰かが董卓を討って、帝の権威を取り戻すことになる。

 帝はまだ小さいから、相国しょうこくになれば、そいつが世を帝の代わりに統治することになる」


「少なくとも戦いを知っている将たちは、私達と同じことを感じているはずだよ」


「数年経ったら、お前も志願することを許されるだろ。

 どこに行くつもりだ?」


「まだ決めてない。今、諸将の動きを見てる。

 義父上は丹陽太守たんようたいしゅだ。そういう話が色々入って来ているから、少しずつ義父上の手伝いをしながら世の動きをもっと知りたい。

 こういう世の中だ、見掛け倒しで器に才が満ちていない、そういう人間は多い。

 でもその中にもきっと、本物がいる」


 そういう人間に、仕官したい。


 周瑜はそう言った。



◇    ◇    ◇




 翌朝、いつもなら家の支度を手伝っているはずの周瑜の姿が見えず、周尚は首を傾げて、彼の寝所を訪ねに行った。



公瑾こうきん?」



 扉を軽く叩いたが、返事がない。


「入るよ。もう朝だが、珍しいな。寝坊か?」


 言いながら中に入って行って、寝室に入ろうとしたところ、合間にある居間で、彼は立ち止まった。


 

「おや……」


 見遣ると、窓辺の絨毯の上で、少年二人が同じ毛布に包まって眠っていたのだ。

 側に茶碗二つと、食べかけの柘榴の実が、朝の光に照らされてキラキラ光っている。

 しっかりと毛布まで持って来て、昨日一悶着起こした少年二人が、何か夜通し語り合っていたのは明らかだった。


 思いがけず目撃した可愛い姿に、周尚は吹き出しそうになり、慌てて口を手で押さえた。


(いかんいかん。起こしては可哀想だな)


 彼は足音を立てないように、部屋を出た。




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