石の下

朝吹

 


 金属面に貼ったシールを剥がした後にしつこく残る接着糊を取り除くには、その上から木工用ボンドを分厚く塗り、乾いて固まったところを剥がすと下の汚れも一緒に剥がれる。同様に人は人に対して、「取り繕ったその仮面を何としても剥がしてやりたい」とたまさか願うものらしい。剥げるに違いないと盲信しているのだ。いったい全体、下から何が顕れると期待しているのだろう。

 清んだ湖面のようなすっきりと美しい心をわざわざ他人に見出したいとはあまり想わないだろうから、ぼくや他人の表情筋の下にあると彼らが信じてやまないものは、きっと石の下のむかでのような、廃石ずりのような、何かだろう。

 人から仮面を剥がしたがる者たちはお決まりのようにこちらを不自然な存在だと見做す。そんな彼らは彼ら自身の醜く暗い一面を図らずもべろりと露出させながら、おあずけ中の狗のようにぼくを見る。だからぼくはたまに、わざと彼らの前で感情を露わにしてやるのだ。

「昇進に必要な資格試験に落ちたよ」

 すると狗は眸を輝かせて尻尾をふりたて、昂奮の頂きに舞い上がる。肩を落としているぼくの様子に隠しきれない満足を得てだらしなく悦び、そののちに、表をあらためて月並みな慰めや励ましを口にする。

 こうなったらどちらが表面を取り繕っているのだか分からない。そんな時、ぼくは確かに互いの間に同じ感情が夜道を横切るいたちのようにして一瞬だけ走るのを見る気がする。



「卵とツナを」

 持ち帰り専門のパン屋のケース越しの注文に応えて、女の子がトングでラップのかかったサンドイッチを取る。『眉毛ちゃん』と綽名されている学生バイトだ。綽名の理由は彼女の眉毛にある。化粧をしてもしなくても変わらぬような不器量な顔立ちに、眉だけが定規ではかったかのように左右対称に色濃い。

「あれは眉プレートを使っているのよ」

 女子社員がぼくに教えてくれた。

「眉の形に隙間があいたシートであたりをつけるの。でもパン屋のあの子はいかにも眉プレートを使って描きましたという感じ。もっと濃淡をつけて自然にぼかさないと」

 彼女の云うとおり、眉毛ちゃんの眉はまるで珈琲色の色紙を貼り付けたように過剰だった。顔全体の均衡がそれでかえって崩れてまるで福笑いだ。あんな凛々しい眉が似合うのは外人モデルだけだろう。

 時間のずれ込んだ昼休み、社内の休憩室で買ってきた総菜パンを食べながら、あの女の子はどうしてあの眉にしているのだろうと考えた。長芋のような顔の中で唯一、眉だけが立派すぎる形を保っている。それ以外では朝昼の忙しい時間帯にも落ち着いて客をさばいていて危なげないから、ああいう子は繁盛している旅館か蕎麦屋にでも就職すると重宝されそうだ。

 毎朝、彼女は鏡に向かって刀のようなあの眉を描く。誰からも可愛いとは云ってもらえぬであろうあの顔に石をおく。客はわたしの眉を見る。わたしは装っている。わたし自身は見えてない。

「それは彼女を憐れんだことを誤魔化すためのお前の自己弁護的な想像だな」

 真夏のラムネのように爽やかにぼくに向かって笑ったのは登山仲間の紺野だ。有休を利用してぼくたちは山に来ていた。

「単に、彼女の美意識が大幅に歪んでいるだけさ」

「云いすぎだ。紺野」

「都会に出てきて大学に通い大勢の人と接するバイトをやっていて、それでまだ自分の眉が周囲の女と比べておかしいと分からないのは相当におかしい。違うか?」

 紺野は悪い男ではない。

「なんなら俺が店に行って彼女に云ってやろうか。君の眉は似合ってないよ、化粧品売り場の店員に相談してごらんと」

 女慣れしたちょい悪のこいつが云えばきっと厭味にもきこえない。興味の沸かない女の眉なんてどうでもいいことを隠さない。胃もたれするような好奇心や同情が混在していないのがかえっていいのだ。もし仮面について訊けば、紺野はさめた顔でこう応えることだろう。

「気に入らないというだけで粘着して、本性を暴くと騒ぎ立てる集団の心の闇こそ怖いけどね俺は」

 正義正論で爪先まで全身をきれいに覆い隠せたとおもいこんでいる者たちの、鼻の穴を拡げて大上段に構えている唇のめくれ上がったあの顔ぶれは、猿か、ギロチンを眺める群衆の粗野な薄笑いを連想させる。純真無垢を主張しながら承認欲求と加害欲をたっぷりと刷いたそれは下手な営業のように粘ついて、戸袋に挟まった蛾のような奇矯ぶりを仮面の隙間に覗かせる。



 紺野がはっとなって脚をとめ、山頂を仰いだ。雪解けの後は浮石が多い。カラカラと不気味な音が聴こえてくる。

「危ない」

 こんな時には落石注意を促すために「ラク」と声を上げるのだが、先に身を縮めたぼくの口は咄嗟には動かなかった。

「ラクッ」

 下方に向かって声を放ったのは紺野だ。その警告は嵐の到来を告げる船乗りのように響いた。

 その日の落石は空中を飛んでいた。斜面にぶつかり派手に跳ねた石が皮膚を削り取るようにして耳の真横を掠める。注意喚起はリレーのように伝播していき、山のかなり下からも「ラクッ」と声がした。

 ばったのように降り注いでいた落石がようやくおさまった。

「危なかったな、紺野」

 隠れていた岩陰から出て紺野を探すと、紺野は膝をつき両手を顔面にあてて低い声で呻いていた。ぼくは待った。

 空が翳り、山相から影が消えた。出現する巨人のような雲。顔を上げない紺野を見つめるぼくの仮面の下に何か潜んでいないかを探るようにして、狗鷲が頭の上を飛んでいた。




[了]

 

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石の下 朝吹 @asabuki

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