月の記憶(アーカイブ)

中川隼人

月の記憶(アーカイブ)

 その言葉を、僕はアーカイブの片隅で見つけた。


『月が綺麗ですね』


 百数十年前、まだ空が本物だった時代の古い小説家が、英語の〝I love you.〟をそう訳したという逸話。


 なんとも遠回りで、湿り気を帯びた、いかにも旧時代の日本人が好みそうな表現だと思った。そして、この完璧に管理された僕らの世界では、決して生まれ得ない言葉だとも。


 僕、相葉秋兎あいだ あきとは、大気汚染による惨事を生き延びた人類が暮らすドーム都市『アークNo.7』の管理職員アーキビストだ。


 この都市の理念は完璧な快適と安全の追求。その過程で〝ノイズ〟として切り捨てられた過去の文化や歴史の中から、不都合な真実の欠片を探し出すのが僕の仕事だった。


 管理局がこの部署を残すのは、万が一の保険、そして何よりプロパガンダのための『歴史の管理』のため。僕は欺瞞に気づきながらも、忘れられた理想を信じ、アーカイブに潜り続けていた。


 デスクの正面は壁一面が透過ディスプレイになっており、膨大な過去のデータを呼び出しては分類するのが業務だ。


 僕は、ただの作業としてデータを見てはいなかった。ディスプレイに映るざらついた画質の映像、雑音混じりの音声に神経を集中させると、まるで自分がその場にいるかのような錯覚を覚える。日々、そうやって過去の世界に想いを馳せていた。


 古いデータに触れるたび、息苦しくなる。傷だらけで、不確かで、予測不能で、だからこそ豊かだった過去。それに比べて、現代はあまりに完璧で、退屈だ。


 僕らの頭上には、常に巨大な《空幕スカイ・スクリーン》が広がっている。それは全天周を覆うディスプレイであり、この世界の〝空〟そのものだった。


 昼には完璧な青空とプログラムされた雲を映し、理想的な量の陽光(もちろん人工光)を注ぎ、時には予報通りの穏やかな雨を降らせる。


 そして夜には、寸分の狂いもない星々の運行と、理想的な周期で満ち欠けを繰り返す月を映し出す。人々はこの偽りの空の下で生まれ、与えられる完璧な日常を享受し、空幕スカイ・スクリーンの月を本物だと信じて疑わない。


「月が、綺麗ですね」


 休憩時間、隣のデスクで同僚の美咲がうっとりと呟いた。オフィスの窓の外には、理想的な十六夜いざよいの月が浮かんでいる。欠けた縁さえも、コンピュータが計算した滑らかな曲線を描いていた。


「ああ、本当に。プログラムの賜物だよ」


 僕がそう応じると、彼女は呆れた顔でこちらを見た。


「相葉くんって、本当にロマンがないよね。そういうデータばっかり見てるから、心が乾いちゃうんだよ」


 ロマンがないのは、偽物の空の方だ。そう喉まで出しかかった言葉を、僕はコーヒーと一緒に飲み込んだ。彼女のような無邪気な感嘆を聞くたび、この世界の最大の『嘘』に対する僕の違和感は、疼くような痛みを伴って強まっていく。


 あの、完璧すぎる月に。


 僕のアーカイブ掘りの旅は、ついに禁忌の領域――惨事以前の、生の観測データへと向かうことになった。


 アクセス申請後、僕の前に現れたのは、月のように聡明な雰囲気を持つ女性だった。


「システム管理部、統括責任者の天野ルナです。あなたが、相葉秋兎さん?」


 すらりとした立ち姿に、塵ひとつない白い制服がよく似合っていた。感情の読みにくい涼やかな瞳が、僕の申請理由を品定めするように見つめている。


 彼女こそ、このアークの完璧なシステムを維持する最高責任者。僕が壊したいと願っている世界の、守護神だった。


「はい。古い時代の月と、現代の月の差異について、学術的な見地から研究したく」

「差異、ですか。アークの月は、過去の膨大な観測データを基に、最も美しい姿を忠実に再現したものですが」


 彼女の声は、空幕スカイ・スクリーンの星々のように冷淡に、そして寸分の狂いもなく響いた。


「ええ、存じています。ですが、再現の過程で失われた情報、あるいは〝ノイズ〟として意図的に排除された文化的背景に、凄く興味があるんです。不完全さの中にこそ、真実が宿るのではないかと」


 僕の言葉に、ルナの眉が僅かに動いた。彼女はしばらく僕を観察していたが、やがて小さな、ほとんど吐息のようなため息をつくと、認証端末に指を滑らせた。


「管理局の厳重な監視下にあるという条件付きで、閲覧を許可します。……あまり面白いものを見つけても、騒がないでくださいね。世界の平穏を乱す不秩序は、速やかに除去するのが私の仕事ですから」


 最後の言葉には、鋭い警告と、そしてほんの少しの好奇心が入り混じっているように聞こえた。


 それが、僕とルナの出会いだった。


 彼女の認証のおかげで、禁断の果実とも言えるデータにアクセスできるようになった。そこにあったのは、僕の想像を遥かに超えるものだった。


 本物の月は、無数のクレーターに覆われ、醜く歪み、決して完璧な球体ではない。光の反射率も常に一定ではなく、太陽風や微小な隕石の衝突で、その表情を刻一刻と変えていた。


 空幕スカイ・スクリーンの月が、ガラスケースに飾られた静的な美の結晶であるなら、本物の月は荒々しく、傷だらけで、だが確かに生きている一個の天体。


 そして、最も衝撃的だったのは、大気の状態を示すデータだ。浄化システムは何十年も前に役目を終え、今やドームの外の大気は、ゆっくりと、しかし確実に自己再生を遂げていた。


 もう、人類は『アークNo.7』に閉じこもっている必要はないのかもしれない。


 週に一度の報告のため、僕はルナがいるデータラウンジを訪れていた。義務的な報告を早々に終えると、見つけたばかりの古いおとぎ話をディスプレイに映し出してみた。


「月の『海』には、兎が住んでいる、という伝承があったようです。ここで餅つきをしているんだとか」

「非科学的ですね。単なる模様でしょう」


 ルナは平静に言うが、彼女の視線は不格好な兎の絵に釘付けになっている。


「どうして、兎なんでしょう。合理的な理由が見当たりません」

「さあ? でも完璧じゃないから、何かに見立てて想像を膨らませたんでしょうね。今の月じゃ、ただの綺麗な球体にしか見えませんから」


 僕の言葉に、彼女は何も答えない。けれど、その日から報告会は、少しだけ様相を変えていった。


 次の週、僕は月の満ち欠けに合わせた旧時代の和歌をいくつか紹介した。


「『月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど』。月を見るだけで、様々な悲しみが湧き上がってくる、と。昔の人は、感傷的ですね」


 ルナは浮遊ディスプレイに映し出された古い詩の羅列を、指でそっとなぞった。


「……非効率的な感情の浪費です。月の光に、そこまでの作用があるとは思えません」

「どうでしょう。本物の月の光には、人の心を揺さぶる何かがあったのかもしれませんよ。僕らが見ている光とは違う、不規則な揺らぎが」


 僕の視線に気づいたのか、彼女は慌てて指を引いた。耳が、ほんの少しだけ赤らんでいるように見えた。


 仕事の報告の後、僕が発掘した古い詩や物語を彼女に見せるのが、いつしか恒例になった。


 彼女はいつも「非合理的」「無意味」と切り捨てながらも、決して席を立とうとはしない。僕らが共有する時間は、システムの監視の目を逃れるように、静かに密度を増していった。


「完璧すぎる世界は、人の心を退化させます」


 ある日、僕がそう言うと、彼女は初めて、少しだけ寂しそうな顔をした。


「……私には、よく分かりません。完璧であることは、常に正しいことだと教わってきましたから。ノイズは、エラーは、世界の敵だと」


 ルナの声は、まるで自分に言い聞かせているようだった。彼女もまた、この完璧で退屈な世界の被害者なのだ。そう確信した時から、僕の探求心は、明確に別の目的を持ち始めていた。


 この人を、この偽物の月から解放したい。彼女に、本物の世界を見せてあげたい、と。


 夜、僕はついに核心的なデータを発見した。ドームの第七セクター、廃棄されたはずの旧式のエアロックが、まだ生きていること。二重の分厚いハッチを持つ、隔離されたドームから外部へと続く唯一の通用口だ。


 そして、その先の外部監視カメラが捉えた、分厚い雲の切れ間からの――本物の月光。


 データを見た途端、興奮と恐怖に襲われた。


 これを伝えれば、僕らの穏やかな時間は終わる。彼女に、世界のすべてを捨てるかどうかの選択を強いることになる。


 僕は数時間逡巡したが、意を決して彼女のプライベート回線にコールした。


「天野さん、僕です。今すぐ会えませんか」


 人気のない展望デッキで落ち合った僕らは、ガラスの向こうに広がる完璧な夜景を前に、しばらく黙り込んでいた。空幕スカイ・スクリーンには、非の打ち所のない満月が浮かんでいる。


「見てください」


 僕は携帯端末に、発見したばかりの映像を再生した。ノイズの多い、白黒の映像。けれど、そこに映る光は、明らかに作り物とは違っていた。揺らぎがあり、力強く、どこか懐かしい光。


「これは……本物の月?」


 ルナの声が微かに震える。


「はい。そして、この光が差す場所に僕らは行くことができます。大気汚染も、もう問題ないレベルまで回復してるんです。一緒に行きましょう、天野さん。君と、本物の月が見たい。僕らがずっと話してきた、兎がいるかもしれない月を」


 それは、管理職員アーキビストとしての探究心だけではなかった。相葉秋兎という人間の、どうしようもなく身勝手な願いだった。この管理された箱庭で、唯一僕が心惹かれた女性と、本物の世界を分かち合いたい。


 ルナは唇を固く結び、激しく揺れる瞳で僕を見つめ返した。彼女はシステムの守護者。僕の提案は、彼女の人生全てを否定する裏切り行為に他ならない。恐怖、葛藤、戸惑い。あらゆる感情が彼女の表情に渦巻いていた。


 沈黙が重くのしかかる。空幕スカイ・スクリーンの月は、二人に、いつもと変わらぬ光を投げかけ続けていた。


 僕は、アーカイブで見つけたあの古い言葉を、今こそ使うべきだと思った。それは、この狂った世界で見つけた、唯一の真実の言葉なのだから。


 彼女の瞳をまっすぐに見据え、ゆっくりと口を開いた。


「月が綺麗ですね」


 君がこれを、ただの時候の挨拶として聞き流すなら、僕は全てを諦めよう。


 だが、もし君が、僕らが共有してきた時間の意味を汲み取ってくれるなら――。


 ルナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。偽物の月光を反射して、小さな星のようにきらめいた。


 彼女はしばらく天を仰ぎ、やがて僕へと視線を戻すと、震える手で自身のシステム管理端末を操作し始めた。


 次の瞬間、世界から光が消えた。


 展望デッキも、眼下に広がる都市の灯りも、そして何より、僕らの頭上で輝いていた月と星々も、全てが暗転した。


 遥か遠くから、市民の戸惑う声が聞こえてくる。完全な闇の中、僕らは互いの息遣いだけを感じていた。


 しばらくして、僕らの目が暗闇に慣れ始めた頃。頭上の一点が、ぼんやりと白み始めた。ドームの天井が、ゆっくりと透明に変わっていく。遮光ガラスが、本当の空を透過し始めたのだ。


 そして、僕らは見た。


 分厚い雲の切れ間から姿を現した、本物の月を。


 それは、作られた月のように完璧な円ではない。少しだけいびつで、表面は無数のクレーターによる深い影に覆われている。


 けれど、その光は力強かった。銀色の粒子が降り注ぐように、僕らのいる展望デッキを、暗闇に沈んだ都市を、静かに、だが圧倒的な存在感で照らし出した。


 なんと荒々しく、なんと美しい光景だろうか。


 僕のアーカイブにあった、どんなデータも、この感動を伝えることはできないだろう。


「……綺麗」


 隣で、ルナが呆然と呟いた。彼女の横顔が、本物の月光に照らされて、神々しいほどに美しく見えた。


 彼女は僕の方を向き、悪戯っぽく微笑んだ。その表情は、僕が今まで見た彼女のどんな顔よりも、生き生きとしていた。


「ええ、本当に」


 彼女は一度言葉を切り、僕の目を見て、はっきりと続けた。


「――ここから、始めましょう」


 それは、古い時代の小説にあった「死んでもいいわ」という受動的な返事ではなかった。


 偽りの平和に終止符を打ち、困難かもしれないが、真実の世界を二人で歩き始めるのだという、力強い誓いの言葉だった。


 僕らはどちらからともなく、強く手を取り合った。本物の月の光が、新しい世界へと踏み出す僕らの道を、確かに照らしていた。


 アーカイブの片隅で埃をかぶっていた古い言葉が、今この瞬間、僕らの未来を拓くための、最も新しい合言葉になったのだった。





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